松島の 磯にむれいる あし田鶴の 己がさまざま 見えし千代かな              重之集  源 重之
松島や 汐くむあまの 秋の袖 月はものおもふ ならいのみかは            新古今和歌集 鴨長明
陸奥に ありといふなる 松島の まつに久しく とはぬ君かな                     古今和歌六帖
たよりある 風もやふくと 松島に よせて久しき 海人のつりぶね                    清少納言
松島の をしまの磯に 漁りせし 海人の袖こそ かくは濡れしか            後拾遺和歌集 源 重之
松島の 海人のとまやは 知らねども 我が袖のみぞ しおれわびぬる    後鳥羽院集 後鳥羽上皇
あふにかふる 契りをのみぞ 松島や 惜しまれぬ身の ならひなりせば        順徳院集 順徳天皇
更くる夜を 心ひとつに 恨みつつ ひと松島の 海人の藻塩火                拾遺愚集 藤原定家
なほざりの 契りばかりを 松島や 惜しまれぬ身は としはへにける            光経集 藤原光経
松島の 海人の苫屋も いかならむ 須磨の浦人 しほたるる頃             源氏物語
この浦の みるめにあかで 松島や 惜しまぬ人も なき名残かな        回国雑記  道興准后
となき 別れの数を 松島や 雄島の磯の 涙にぞ見る              都のつと 宗久
あふ事を いつしかとのみ 松島の かはらず人を 恋渡るかな            続古今和歌集 柿本人丸
松島や 松のうは風 ふきくれて けふの船路は 千賀の塩竃               回国雑記  道興准后
 
 宮城県汽車旅行の旅 明治33年10月8日      ●地理教育鉄道唱歌 明治33年10月13日 
 作詞小山源蔵 作曲前田河信近                作詞大和田健樹 作曲田村虎蔵
♪1 東北路線の起点なる 上野の駅を発車して        ♪30多賀の碑ほそちかき 岩切おりて乗りかかる
  山を後ろに河を越え 那須野を過ぎて桑折まで         汽車は塩竃千賀の浦 いざ船よせよ松島に♪
13 程なく着きし岩切は 塩釜線の分岐点        
●松島船あそび 作詞大和田健樹 作曲奥 好義
    塩釜線にのりかへて 神代の釜を尋ねみん       ♪1こげやこげこげいざ船子 鏡なせる海の上
14 徒然ふせくよしもかと 早苗茂れる田の面を          波に浮かぶ八百の 嶋の面影おもしろや
   見る間に利府を過ぎ去りて 松島駅に着きにけり      2見るがままに変りゆく 松のすがた岩のさま
15 嗚呼松島や松島は ここより近しいざさらば          前に立てる嶋ははや あとに遠く霞たる
   舟にさおさし八百嶋の 月の景色やたたへなん♪      3雪のあした月の夜半 遊ぶ人はいかならん
                               見れども見れども果てもなく 二子嶋の夕景色
仙釜鉄道唱歌 同上                     4五大堂を右にして 瑞巌寺の森ちかき
♪1 汽笛一声音高く 五城の里を出で立てば           磯に舟は着きにけり 暫しといふ程もなく♪
   青葉の山のほととぎす 別れ惜しみて鳴き渡る         
2 雲にそびゆる岩切りの 館を遥かに眺むれば
   青葉に埋む城の跡 いとど昔を忍ばるる
3 末の松山末かけて 千歳を契る深緑             
  野田の玉川水清く 流れは千代につきざらん        
4 やがて言葉のたえぬ間に  沖津白波松島の       
  海人の小舟に千鳥鳴く 千賀の浦和に着きにけり♪    
                                       

汽笛一声新橋を・・・・で始る「鉄道唱歌」のメロディは当時文明開化を代表する曲で、一世を風靡したがそのメロディに会わせ斯くのき仙台歌枕の地の歌が明治時代に発表されているのは実に松島が日本を代表する観光美を誇るからだろう。大切にしたいものである(松島物語 あづま書房)

尤も鉄道唱歌は東海道だけではありません。それは第1集に過ぎません。第2集は山陽九州 3集は東北地方 4集が北陸地方 5集が関西各線と地理教育の教科書であったのを知る人は少ない。
最後に 『奥の細道、松本、もろおか、赤沼、西行かへりなどといふ所をうち過ぎて、松島に至りぬ。浦々嶋々の風景辞も及びがたし。かねて聞き侍りしは物の数にても侍らず。皆々かへりかね侍りければ
 
            この浦の みるめにあかで 松島や 惜しまぬ人も なき名残かな
(回国雑記 道興准后 1486年。噂の松島より実物はもっと凄い と道興は松島の素晴らしさをその紀行文に記し 感極まって歌まで詠んでいます。この様に三者三様表現はそれぞれだが要は筆舌に尽くしがたい松島の風景美を記している。現代は勿論 近代明治 近世 中世 古代と松島はいつも人々に感動を与えてきた撰ばれた地なのです(平成15年9月1日)

                 松島     

➡ここで詠んだ彼の句は『島々や 千々に砕けて 夏の海』である。(平成15年9月1日)(参考 読史備要 東大資料編纂所 松島物語 あづま書房  松島町史)
 親の墓参りには行かなくとも、松島へ行かなかった人はいないでしょう。。松島町誌に朱子学者林 羅山の子春斉の文として『松島の外、島嶼若干あれども、殆ど盆池月波の景の如し、境致の佳、丹後の天橋立、芸州の厳島と三奇観たり』と載せてある。日本三景はここからはじまるのです。因みに全国八景は和歌の浦(紀州) 住吉浦(摂津) 明石浦(播磨) 吉野山(大和) 塩釜の浦(旧松島の事 陸奥) 加茂川(山城 最上川(出羽) 富士山(駿河)とある又東北では平泉毛越寺庭園と松島だけが国の特別名勝に指定されているのです。芭蕉が『もゝ引きの破れをつヾり、笠の緒付けかて、三里に灸するより、松島の月先ず心にかゝりて・・・・』と 月日は百代の過客にして・・・の次に記した程、松島は風流の人達の憧れの地だったのでしょう。神は日本の大地を平等に海と陸とを創らなかったようです。特別のお恵みで創られたのが松島なのです ここに近世・中世の代表的紀行文の名調子とその感激ぶりを載せてみました。先ず『抑、ことふりたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡そ洞庭・西湖を恥じず。東南より海を入れて、江の中三里、浙江の潮をたゝふ。嶋々の数を盡して、欹たつものは天を指差し、ふすものは波に腹這う。あるは二重にかさなり三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負へるあり抱けりあり。児孫愛す如し。松の緑はこまやかに、枝葉汐風に吹きたはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。其の景色えう然として、美人の顔(かんばせ)を粧ふ。ちはや振る神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化の天工、いづれの人か筆をふるひ詞を尽くさむ』(奥の細道)。この名美文・名調子の一節に松島の総てが凝縮されているのではないでしょうか。余計な文言こそここでは不要でしょう。更にもうひとつ『それより浦(塩竃)つたひに松島にたつね行き、げに心ある海人のすみかとみえたり。またここに円福寺(瑞巌寺とて寺あり、覚満禅師開山の地なり、僧衆百人寺住すとかや、寺のまへみなみはしほがまの浦へつつきて、千嶋なといへとも、なほそのかぎりみへず、あるはおきの遠嶋とて、はるかなり、そのあひたに小嶋おほく見へたり、松島のひんがしにあたりてはなれたる嶋に橋をわたしてひとつの堂あり、五大堂といふ、やがて五大尊を安置せり、みなみへむかへる山陰の磯ぎはに石をたかくたたみて、ほそき道あり、海のきわをつたへゆきて見れば、すさきに松おひかたぶきて、木末を波にひたせり、行きかふふねはさながらしづへの緑をこへ行それよりすこしへだたりて小嶋あり、これなん雄島なるべし小舟につなをつけて、くり返しつつかよふ所なり、この嶋に寺あり、来迎の三尊ならひに地蔵菩薩をすへたてまつれり雄島より一町ばかりさしいてて松竹生なひて苔ふかく心すこしきところあり、此国のはかりなく成にける遺骨をおさむる地也、その他発心の人のきりたるもとゆひなどもおふく見ゆ、いとあはれに心すみておぼえしかば、2~3日とヾまりはべりき、
              誰となき わかれのかづを 松島や 雄島の磯の 泪にそ見る』(都のつと 宗久 1350年)
と風景より霊場雄島えの感慨を記しています
以上代表的紀行文の松島での感じ方を記載しましたが皆さんならどんな感慨を述べられるでしょうか。所で芭蕉は松嶋の余りの美しさに句が出なかったとか、或は『松嶋や ああ松嶋や 松嶋や』とか呼んだと流布されているが、此れは相模国の狂歌師・田原坊が『松嶋や さて松嶋や 松嶋や』と詠んだものがいつの間にか芭蕉の句のように云われるようになったものである。