皆さんの大好きな金が日本で最初に発見され、然も実用に供されたのが此処宮城県遠田郡涌谷町である事を知る人は意外と少ないのである。それはあの『さまよえる天皇』と称される聖武天皇の御代 749年(天平21年)2月22日にである。奈良 恭仁(京都) 紫香楽(滋賀) 難波 奈良と次々と都を変えている『彷徨5年』はノイローゼ説さえある小心の聖武天皇の時である。藤原広嗣の乱をはじめ高級官僚の死 疫病 飢饉や地震などの世情不安から国家鎮護を仏法に求め,とうとう743年(天平15年10月15日)黄金の盧舎那仏建立の詔を発したのである。こう云う気の小さい方に限って大胆無謀な事をするものである。16mと言う巨大な鋳型もさることながら、当時日本には金は全く無かったと云われる時代にもかかわらずである。あてもなく始るのは何とも日本的で神風的な所があり苦笑させられるのだが、そんな時749年(天平21年2月22日)突如陸奥より金900両(13kg)が献上されたのである。正に神風が吹いたのである。日本国の歴史的運の良さはこの辺りから始っているのかもしれない。続日本記に『乙卯 陸奥守従三位上百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)貢黄金900両』と記されている。其の喜びようはただ事でなく元号を天平2文字から天平感宝4文字に改め、自らを『三宝の奴(やっこ)』と称して仏の僕であると宣言している。これにより黄金の大仏の完成の見込みが立ち752年(天平勝宝4年)に未完成のまま開眼供養を実施する異常さであった。日本歴史始って以来の最も盛大な儀式だったという。それが小田郡にある小田なる山 陸奥山の金のおかげだったのである。これにより陸奥は3年間税金が免除され、地元小田郡は永久免除されたのである。勿論今 涌谷の人も税金を納めているのだから永久も当てにならないのだが。その採れた金の山を奉ったのが延喜式内社黄金神社である。ここから『天平』と彫られた瓦も見つかり国は昭和42年『黄金山産金遺跡』として国史跡に指定されたのです。祖先伝来天皇警護の武人であった大伴家持は天皇の悦ように感激し前記の歌を詠んだのである。其の中に下線を引いた部分を見ていただきたい。ご年配の方なら何方も聞いた事のあるあの哀愁の軍歌『海行かば』である事にお気づでしょう。昭和12年東京音楽学校教授信時 潔が作曲したもので短い曲ながら世界最高の鎮魂歌といわれる。作詞家大伴の家持は現代に脈々と息づいているのです。涌谷で金が発見されなければこの歌もなかった と思うとこの地の凄さを改めて考えさせられるのである。今もこの地には黄金迫 黄金山 黄金橋 黄金洗沢 黄金洗井など景気のいい地名があります。其の上この陸奥山の麓にある涌谷町はあの有名な伊達騒動の一方の主役涌谷伊達安芸宗信の居城の地でもある。もう一方の主役船岡城主伊達藩家老原田甲斐宗輔である。この複雑なお家騒動は寛文事件として小説や歌舞伎でも絶好の演題となったのである。山本周五郎の「もみの木は残った」や歌舞伎「伽羅先代萩」である。無能な3代綱宗を19歳で早々に隠居させたあと僅か2歳の亀千代(綱村)が四代当主となるが、伊達兵部宗勝(一関城主)その後見人になった。伊達安芸が伊達兵部・原田甲斐の横暴を幕府に申し出た為に悲劇が起こったのであるがここでは其の詳細は省きます。かくのごとく陸奥山は黄金狂騒から伊達騒動まで人の歴史を見続けていたのです。
                 (参考 黄金産金遺跡 涌谷町 聖武天皇 PHP新書  平成15年11月25日)
 
 陸奥山 其の2