昔 陸奥の国にて男 女すみけり。男[ 『みやこへいなむ』といふ。この女いとかなしうて、馬のはなむけ
をだにせむと、おきのゐて都嶋といふ所にて、酒のませてよめる との詞書で
沖のゐて 身を焼くよりも 悲しきは 都(宮戸)島辺の 別れなりけり 在原業平
と伊勢物語115段に都嶋が載っている。曾良の名勝備忘録に『都嶋、松島の東に有り。宮戸嶋と云。所の者は内裏と言う后嶋と云う小島共に有』と記している。伊勢物語に詠まれた歌名所なのだが、松島湾内には塩竃市にある小さな都嶋と、鳴瀬町にある宮戸嶋と似た様な発音の嶋が二つあった。曾良はこの二つ嶋を一緒にしてしまったらしいのです。たしかに江戸の人が『こ』 『と』の発音を聞き違えても仕方ない事でしょう。ましてや江戸のべらんめい調と東北のズーズー調でやむおえない。業平が詠んだ歌枕の嶋は一体どちらの嶋なのだろうか。曾良はその旅日記の中で『塩竃明神 ヲ拝み、帰而出船。千賀の浦・籬嶋・都嶋等所々見テ牛ノ刻松島ニ着船・・・・』とある。地図を見ると、塩竃を船出すると間もなく内裏嶋が見えます。その隣に十二妃嶋(これが后嶋)と都嶋の名前が見えるでしょう。ともに小島である。今でこそ塩竃の陸地の隣にありますが当時は埋め立てなどありませんから、乗船塩竃の地と松島雄島の地の丁度中間位の結構沖合いの小島であるのがおわかりでしょう。ここに往時人が常住するのは困難でしょう。まして馬のはなむけにわざわざそこまで行くとは思へないのです。それに比べて宮戸嶋は大きく今では鳴瀬町と陸続きのになるほど近距離にある。人の気配が十分感ぜられる所です。奥松島とも呼ばれるこの嶋には奥松島縄文村歴史資料館もあるから数千年前から人が住んでいたのである。都からの人と現地の人の接触も出来た事でしょう。ここなら男と女の出会いも不自然ではありませんね。
『赤く焼けた炭火が身について 体が焼けるのはとてもつらいけれども それよりもっと悲しい
のは海に突き出た土手の都嶋の辺りで 都をさして帰って行くあなたと別れることですよ』
現代では殆ど絶滅したなんともけなげな陸奥の女性ではないでしょうか。都からの転勤族のお役人と現地の女性との人間臭さは1000年経っても変らないのに驚くばかりだが、何時も業平のような都の色男に騙され泣かされたのが初心(うぶ)な陸奥の地元の女性なのかも知れない。(伊勢物語 講談社 宮城県の歴史 平凡社)(平成15年9月9日)
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都(宮戸)島
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