昔川
          栗原の郡にてそこにあるものこれを音無の滝に侍り また河は昔河とぞいひ侍るといへばよめる

        いかにして いひはじめける 言の葉ぞ 昔川にぞ とふべかりけり  能因法師集  能因
        昔川 昔ゆかしみ 来てみれば 猶音無の 滝もありけり                 詠み人知らず

今でこそ4号国道の脇街道だが奥州街道が未整備の往時は征夷大将軍田村麻呂を始め頼義・義家親子そしてあの頼朝の平泉征伐軍 能因・西行・芭蕉等の歴史的人物が通った主街道は上街道であった。今でこそ地味な街道だが古代の魅力的歴史が数多い街道なのだ。この道沿いにこの川はある。一迫町文化財分布図では「いにしえ川」と書いてある。「むかし川」と云い「いにしえ川」と云い何か由緒・由来がありそうな名前だがそれを記載した文献は少ないようだ。奥の細道は能因・西行の足跡を辿る旅にも拘ず能因が詠んだ昔川を渡り平行して歩いたにもかかわらず一言も記載してないのは何故なのか?一ノ関から岩手の里までのこの上街道を「南部道遥かにみやりて岩手の里に泊まる」とたったこれだけで片付けているのはどうも不思議だ。芭蕉の尊敬する能因の歌枕の地を歩いているのにである。能因は988年永延2年〜?俗名橘永ト(ながやす)。肥後守橘元ト(もとやす)を父に持つが長和二年(1013年)二十六歳の時出家し摂津国の古曾部居住したので古曾部入道とも呼ばれた。彼が陸奥に来たのは一迫町にとって幸運であった。平安末期とは言えこの地は未だ蝦夷と朝廷のささくれ立った雰囲気は相当にあったろう。そんな中でこの蝦夷の鄙の里に彼は2つも歌を残してくれたのです。きっと彼もこの鄙の道上街道を通ったのでしょうが、たまたま土地の人がこの川の名を話すのを聞いてその由来を不思議に思い上の歌になったのだろう。 確かに1200年前の昔から今同様昔川と呼ばれているのは何処かユーモラスではある。所がこの川なかなか分かり難い。人家の少ない県道17号(上街道)を西に折れるのだが目に付く案内書きもなく何処にでもある山間部の田園風景、取柄のない小川に過ぎないのだから。この川一迫西部の山間部大川口西松風辺りから流れ出し大川口大西の不動明王の前を流れて音無の滝を形成、中流では上街道と併流・交差して柳目で築館町境の一迫川に注ぐ10km余りの小川に過ぎない。中流に『小古橋』なる橋がある。何と読むのか思案していると通り掛りのおばちゃんが『こんせ橋』と云う。なんでこれで『こんせ』と読むのかと重ねて聞くと『こにしえ』 と云って行ってしまった。なるほどこれは『こいにしえ』つまり『小昔(こいにしえ)なのであろう と想像出来たのだがそれにしても何故いにしえに「古」を使ったのかややこしい。こんな風にしばらく道路と昔川は付かず離れず平行して走る。こんなどうでもよい事を思い巡らして運転出来るほど長閑で人家・ひと気の少ない山村の小川である。人知れずある昔川は歌枕マニアの地なのである能因は陸奥の歌枕の地を最初に全国に紹介した人なのだ。
(参考 一迫町史 一迫町) 平成16年4月24日