左端 中将実方朝臣之墓の碑 彼の肩書が左近衛中将なので藤原の姓から一般的に藤の中将実方と呼ばれる 近衛府とは宮中の警護を司る所である

左 西行のかたみの芒の歌碑
 

左下 藤原中将実方の墓 芭蕉の門人天野桃臨は師の足跡の奥の細道を辿り元禄9年(1696)此の地を訪ねた時には実方の墓は風雪に荒廃していて『五輪塔は崩れて名のみばかりであった』と紀行文陸奥ちどりに書いているが今や其の崩れた五輪塔すらなく僅かな土饅頭のみでる 墓の左の石碑は陸奥の国司に左遷の遠因となった桜狩の歌碑である 実方は平安時代きってのプレイボーイで光源氏のモデルの一人ともいわれ清少納言を始め20余名の女性との関係もあったという 実はこの道祖神の祭神は女性で京都の賀茂の河原の西で一条の北に座す出雲道祖神の娘で大切に育てられていたが親の反対を押し切り商人に嫁いだため勘当されこの国に追いやられたが地元の人が神として崇め祀ったものだが霊験あらたかで賞罰をはっきり示す神であったと云う(ウイキペディア) 常に女性にモテモテの彼は彼女を『下品(げほん)の神』として甘く見て下馬しなかったのだろう 古今女性には謙虚に接すべき教訓かもしれない



愛島の郷 
右側の通りが東街道 正一位道祖神社 この100m先に神社がある

左 式内社佐具叡神社
明治41年に以前は愛島塩手の実方の墓の北側丘陵にあったものを道祖神へ合祀した延喜式内社である
名取笠島 
其の3

 




鳥居前の狛犬  風化した狛犬がその歴史の古さを証明しているが 愛嬌のある風貌が悲劇とのコントラストをなしてる

➡ 芭蕉は陸奥の旅に当たり ここ実方の墓地へのお参りが一つの目的だったのである事を考えると発見できなかったその無念さが想像される
 
笠島は いづこ五月の  ぬかる道
元禄3年(1689)漂泊の俳人芭蕉は門人曾良とともに陸奥へ旅し 悲運の歌人中将実方朝臣の塚
を訪れようと名取の郷に入るが折あしく日没と五月雨の悪路に阻まれ目的を果たせぬままこの地に無念の一句を残して通り過ぎたのです➡