大和物語曰く 名とりの御湯といふことを常忠の君の女の詠みたるといふなむ  これ黒塚のあるじなりける
おほぞらの 雲のかよひ路 見てしがな 鳥のみゆけば 跡はかもなし  大和物語 常忠の妻
  と詠みたるけるを兼盛の大君ききて同じこころを

しほがまの 浦にはあまや たへにけん などすなとりの 見ゆる時なき  大和物語 平兼盛 

湯神社と名取御湯の碑 
ホテル佐勘の脇にある 古い神社と遠くの神様ほど有難味があるがこの神社は比較的新しい建築物です

  名取の御湯(みゆ)   
 名取川上流にあるこの名取の御湯を郷人は秋保温泉と言う。仙台の奥座敷として古くから知られている。 日本3大名湯といえば有馬 道後 秋保であり 奥州の3大名湯といえば鳴子 飯坂 秋保といはれている。順徳天皇(1197〜1242)による歌学書 八雲御抄に歌枕として温泉が9ヶ所挙げられているが『御湯』と呼ばれているのは名取、信濃、犬養温泉の3ヶ所のみである。この『御湯』の由来はなんと29代欽明天皇(509〜572)の瘡病にあると言う極めて由緒があるのです。天皇がこの病を患ったおり勅使を頼みこの温泉を汲み取らせ湯浴みしたところ忽ちにして快癒したと言うのである。当時にしては63歳まで長生した欽明天皇の御長命はそのせいかもしれないね? 勿論地の果て陸奥に於ける古代名取のブランドはすでに都では相当高かった思はれるのである。国家の出先機関としての名取郡衙が名取川と広瀬川が交わる所の郡山遺跡にあるのを始め 軍団 川 山 郷 橋 森 熊野三社 雷神山古墳等 名取の名を冠をつけた役所 歌枕 史蹟の知名度が温泉をも有名にしたの事実だろう。然もここ秋保は当時陸羽街道 又は出羽街道(陸奥名取郡衙〜 出羽最上駅 笹谷街道現国道286号線 二口街道)とも云うべき当時の重要官道の近くにあるのだ。出羽国の最上 憂嗜曇(置賜)は716年(霊亀2年)までは陸奥国であり名取郡衙がその管轄にあたったと思われるので往来も結構あったはずである。尚且つ名取りは東山道 出羽道 浜街道のジャンクションにも当たる。一説では名取郡衙は多賀城国府が出来る前の国府だったのではとも言われるので相当重要な拠点だったとおもわれる。更にこの秋保には平家落人伝説が現実的なのだ。佐藤勘三郎家文書によると同家の先祖は平家落人の平基盛に従ってきた7人の内の1人と伝え 代々湯守 山守 梁守を世襲してきたという。湯守は湯の源泉 湯小屋 宿屋の維持管理は勿論 湯役銭の上納の責務を負い 入湯者から木銭 湯銭を徴収し湯役代として一定額を上納し藩の財政の一役を背負っていたのである。現在その末裔が営業している『ホテル左勘』の玄関西側にある「湯神社」のかたわらにある石碑には秋保温泉の由来を記しているである。流石が名湯は歴史が違うのです。そん所そこらの温泉とは違うのです。知らずに入ればたかが湯泉だが 知って入ればされど湯泉だと思う次第である。(平成14年9月8日)(参考 宮城県の地名 平凡社 宮城の歴史 河出書房 大日本地名辞書 富山房)