あだなりな とりの氷に おりゐるは したよりとくる 事はしらぬか    拾遺和歌集 源 重之       
強いて問ふ 人はありても 恋すてふ 名取の郷を そこと知らすな       夫木和歌集 藤原隆覚

宮城県は陸奥でも歌枕が最も集中している所です。.特に県東部の松島 塩釜 多賀城近辺はその最たる所であることは周知の通りですが、私は広瀬川 名取川の宮城南部名取の郷はそれにまさるとも劣らない歌名所ではないかと思われるのです。然もこの郷には更に古い史蹟が多数あるのです。名取の郷は古代東山道 浜街道 出羽街道の分岐点に当たり、交通の要所であったし又716年(霊亀2年)置賜郡 最上郡が出羽に所管が移るまでは名取の郷にある郡山郡衙が管轄してたのを見ても政治の中心であったろうし、また陸奥最大雷神山古墳をはじめ多数の古墳群や板碑群 そして東街道沿いにある神社 塚(幾世塚 雄幸塚)等の存在は文化の中心であったことも想像されるのです。北部は広瀬川 名取川 南を阿武隈川 東は太平洋 西は千貫山から高舘山につらなる丘陵によて仕切られ、じつに平坦 且つ穏やかな一帯であるのを見ると名取の郷が早くから歴史上に其の名を記された理由がわかります。名取の初見は神護景雲3年の続日本記にある。名取郡はその初めは丹取(ニトリ)と記されていたらしいのですそれが地名を縁起の良い嘉名で然も二好字で書くようにとのお触れで名取となったらしい。石城が磐城に書き改められたようにである。そして平安時代になると能因 実方等により歌枕の地として大いに脚光を浴びる様になっていたのです。陸奥の多賀城以前の組織的発展のスタート地点がここ名取の郷であった事には間違いないのではないでしょうか。
(平成14年9月28日)(参考 日本地名大辞典 角川書店)

墳墓域は東西140m 南北210m 全長198mの雷神山古墳 前方部の幅96m 高さ6m 後円部の高さ12mもありその巨大さが知れる 後円部の北側には小塚円墳もあり紀元4〜5世紀のものでいかにこの地の文化の古さと高さを知らされるのです 仙台平野一帯を治めていた大酋長の墓でしょう 巨大で全景は撮れないが手前の置石(左)には →後円部 ←前方部の墳墓と彫られている 4世紀後半から5世紀前半と云う今から凡そ1700年位前のものである 尚この北部名取が丘1丁目〜の新興住宅団地の真ん中に名取飯野坂古墳群がある 前方後方墳7基と方墳2基とが混在し全国にも例がない珍しいい古墳群があり国指定史跡となっている                                 
  国指定史跡 雷神山古墳
宮城県名取市植松
名取の郷にある陸奥最大の前方後円墳雷神山古墳
左端の図  左小塚円墳 右雷神山前方後円墳

名取の郷

     
右・下 国指定史跡古墳群 
   名取市飯野坂山居
  
雷神山古墳の北部にある
国指定史跡名取飯野坂古墳群
の一部の 観音塚古墳  
下 山居古墳
である 他に方墳・前方後方墳が7基程ある 全国的に例のない古墳群である 周りは総て新興団地であり以前はもっと沢山あったに違いない
 温暖で大河の近く又海にも近い平坦な南部の仙台平野は古代人にとり快適な生活環境だったのでしょう