跡たえぬ 誰にとはまし みちのくの 思ひしのぶの 奥の通ひ路 続後撰和歌集 前大納言忠良
『此結句を おくの細道と書きたる事 ものに見えたり。これよりいへる事かとおぼし』とある。この後撰和歌集という勅撰集は藤原為家が後嵯峨上皇の命により1251年に編纂されたものである。芭蕉による奥州紀行文のタイトルは陸奥全般の旅の意味をさすのかと思っていたが 実は仙台市宮城野区の北部の岩切にある小道の固有名詞だったのには実に目から鱗の驚きだ。その証拠にその100年後1351年奥州紀行の宗久がその書物「都の苞(つと)」で『さてみちのくたがのこう(多賀の国府 これは岩切の事である。古代多賀城はここより凡そ3km東だ)になりぬ。それよりをのゝ細道(小野の細道)といふ方をみなみざまに末の松山へたずね行きて・・・』とあるのだ。草書体で書いてあるのでそれを『をのゝ細道』と誤って詠まれ それが『おくの細道』に転化したのでははないかと『おくの細道の想像力』と言う本にかいてあるのです。更にその130年後の1486年に聖護院門跡 道興准后の回国修行の旅紀行「回国雑記」にも『奥の細道(岩切)、松本(現松森町)、もろおか(現利府町)、赤沼(利府と松島の間)、西行帰(松島)りなどといふ所を打ち過ぎて松島に到りぬ』とあり 実に芭蕉が旅立った1689年の430年も前から奥の細道の固有名詞が存在していた事を知ってからここ岩切に不思議な魅力を感じるのです。
芭蕉もその奥の細道の中で『かの画図にまかせて辿り行けば、おくの細道の山際に十符の菅有』と記し 曾良の「名勝備忘録」にも『今市ヲ北ヘ出ヌケ、大土橋有。北ノツメヨリ六〜七丁西ヘ行所ノ谷間、百姓やしきノ内也。岩切新田ト云。カコイ垣シテ有。今モ国主ヘ十符ノコモアミテ貢ス。道、田の畔也。奥ノ細道ト云。田ノキワニスゲ植テ有。貢ニ不足スル故、近年植ル也。是ニモカコヒ有故、是ヲ旧跡ト見テ帰者多シ。仙台ヨリ弐里有。塩ガマ、松島ヘノ道ナリ』とあるのです。芭蕉は奥州紀行の全体を表すタイトルを決めるに当たり ここ岩切の小さな野にあるこの細い道の響きに『ピン』と来るものがあったに違いない。『これだ!』と言う閃きを感じ取ったのではないだろうか。旅日記のタイトルは奥の細道以外にない と。能因 西行の跡を追い陸奥歌枕の旅に出た彼のことである。宗久や道興の事も知っていた事だろう。てもこの無名の小道の予備知識は無く、岩切に来て初めてその存在を知り芭蕉はこの田舎の小道の名前を拝借して自分の書物のタイトルにしてしまったのではないだろうか。つまり奥の細道のネーミングは彼のオリジナルではなかったのだ。意外とちゃっかりしている人なのかもしれない。ここ岩切は古代蝦夷対策としての色麻 玉造 伊治 覚瞥 胆沢 徳丹 志波の各城柵へと南から北に続く東山道(中世奥大道)と 西へ七北田 東へ多賀城(古代国府 鎮守府) 塩釜に行く東西の小道 所謂奥の細道の交差点と言う大変重要な地区だったのです。古代陸奥国府としての多賀城の役割は10世紀には終えていたが中世多賀の国府はここ岩切にあったのです。その証拠に奥州征伐を終えた頼朝が陸奥統治の留守居役(留守職)をここ岩切に置いたのです。伊沢家景です。彼はその後その役職名を自分の苗字にしてしまい留守氏と名乗り標高100mの高森山に岩切城をきずいたのです)。陸奥に於いて中世岩切の知名度は古代多賀城に及ぶべくもないが 然し奥の細道と言うこのベストセラー、ロンググセラーの本の題名がここ岩切にあると言う知名度を遠慮なくPRしてもよいのではいだろうか と思えるのです。
(平成14年12月23日)(参考 回国雑記の研究 武蔵野書院 おくの細道の想像力 笠間書院 よみがえる中世 平凡社) |
芭蕉奥の細道紀行300年記念の石碑 その下に
The Narrow Road To The Deep Notheast
と記され 俳句と芭蕉の国際的人気が伺える 奥の細道(現県道35号線)にある東光寺門前にある 彼はその紀行文にここの固有名詞を拝借して本のタイトルとしたのではないか |
奥の細道
下左端 奥の細道拡張された現県道35号線 左の橋が歌枕轟橋(途絶えの橋・現今市橋) 下が冠川(現七北田川) 右の杜が有名な本の松山東光寺 霊場岩切の中心である ここが古代道路の十字路である 南北に鎮守府胆沢柵に行く東山道と東西に国府多賀城に行く奥の細道が交差する 古代ロマンが溢れる
下中 岩切城からの仙台市
絶景です
下右端 奥の細道と東山道の追分道標
安永3年とある 従是 右しおがまミち1里25丁 左まつしまミち3里27丁とある 岩井商店の奥さんの話では嫁にきた頃はどぶ板代わりに転がっていたそうである 右下の長方形の追分の拡大が左の写真 明治時代製 |