雲路にも 抑への関の あらませば やすくは雁の 帰へらざらまし  夫木和歌集 源 仲正
                                                             
稀にきて 恋もつきぬに いそぎ行く 人を抑の 関もすゑなん   夫木和歌集 読み人知らず
                                                          
思へども 人目をつつむ 涙こそ 抑の池と なりぬべきかな   夫木和歌集 読み人知らず

後藤氏が案内してくれた抑えの池跡である 中央の柵の向こう側緑の部分が一段と低くなっている 地平線は江合川の堤防である 住所は古川市(現大崎市)三丁目抑の池となっている
抑の関・池
                        
 世の中には本当に郷土の歴史が好き!と云う方がいるものです。そしてそれは其の地域の生の歴史であり微に入り細に渉り学者の活字にはない信憑性があるのです。実はここ抑の関・池の所在地は門外漢の者には全く分かりづらいのです。米どころ古川だけに田んぼの哺場整備は抜群で、跡形もなく整地されたうえにどう云う訳か案内書きや目印すらないのです。古川市史によると「清水向三丁目(後藤氏は本来三城の目と言う)に抑の関・池の遺跡とされる所がある」とあり、玉造郡史には「東大崎清水字三丁目抑の池囲に大内五男外数名の所有せる宅地田畑地所は往古のおさへの関の遺址なり、とありさらに抑の池囲一帯の地盤にして斎藤松右衛門外数名の所有せる宅地田畑原野約七段余歩は抑の池の古跡にして」と載せているが漠としてつかめないのです。そこで尋ねたお宅が後藤吉宏さんと言う方。幸運にも正に此あたりの歴史の生き字引だったのです。一時間程此辺り一帯の歴史・地名・言われ・伝説を話され、さらに手造りの家系までお見せいただいた。この屋敷も安東屋敷といい何か青森十三湊安東氏と関連が有ると言うのだ。それからおもむろに軽トラックで御案内いただいたのです。それが次ページの画像です。。2軒のお宅の小字が抑の池という地名も嬉しい。300年の歴史を誇る家柄だそうです。この辺りは古代大和朝廷と蝦夷日高見国の接点にあり多くの柵や関が置かれた所です。此関を地図上で見ると玉造川を挟み南西・北東の直線上に下から城生柵跡(色麻の柵?)・名生館官衙遺跡(玉造柵?)・抑の関・宮澤官衙遺跡(多賀城の1.5倍東北一の広さ)と並んでいるのが分かるのですが、古代の官道があったのかどうかは定かではないようです。又東南・北西にも出羽へ抜ける街道があり玉造騫・岩手の関(尿前の関?)がり、玉造川の傍らの所在からすると舟運と陸路の拠点だったのだろうか。福島の勿来の関のネーミングと同じで蝦夷を抑える関の意味であろう。福島といえば抑の関・池は福島の北部伊達郡桑折町の半田山の麓と言うほうが定説ではある(福島編参照)。ここには奥州街道の宮城県境に下紐の関 羽州街道の宮城県境に抑の関があるのです。蝦夷追討とともに勿来の関が利府へ北上したように抑の関も北上しても可笑しくはないのです(宮城県名古曾の関参照)。いづれにしても蝦夷にとって迫害のネーミングに変りはないのだから。
(参考古川市史 玉造郡詩 竃シ著出版)平成15年12月2日