究極の松島の発祥がここ雄島であるのを知る人は少ないのです。東の聖地 雄島は古来『奥州の高野』と呼ばれ、もともと瑞巌寺の奥の院で特別霊地だったのです。だからここには修行僧の岩穴が55程あり(往時は108あったという) 石仏 五輪塔 棹石塔婆 歌碑 句碑 板碑が林立している。宗久の都のつとに『・・・・この国の人のはかなく成りにける遺骨をおさむる所なり、その他発心の人のきりたる、元結なともおほくみゆ』とありそれを物語るようである。芭蕉の奥の細道では『雄島が磯は地つヾきて海に出でたる嶋也。雲居禅師の別室の跡 座禅石など有り将(はた)松の木陰に世を厭う人も稀々見え侍りて、落穂、松笠など打ちけふりたる草の庵閑に住みなして・・・・』などど述べている。雄島の宗教的性格は平安時代にはじまる。1104年(長治元年)見物上人が伯耆(ほうき)国からこの島に来て妙覚庵を結んだ。其の名声が天皇にまで聞こえ1119年(元永2年)鳥羽天皇は姫松千本を下賜したという。よって雄島は千松島(ちまつしま)とよばれここから松島ブランドが始ったのである。西行も能登稲津の岩窟で『月まつしまの聖』なる人物に会い、毎月10日ばかりこに来て残りを雄島で修行している。彼が見物上人であると記している。
            紫の 雲まつ嶋に 住めばこそ 空ひちりとも 人のいふらめ  (今昔物語 見仏上人)
その高徳ぶりにあの尼将軍北条政子も感激し頼朝お気に入りの仏舎利 水晶の舎利塔を寄進しその冥福を祈ったという。瑞巌寺にそれが残されている。又見物上人の再来といわれ国指定重要文化財の(頼賢碑)で有名な頼賢、42歳で松島に来たあと京都 鎌倉で修行ののち松島に戻り22年間一歩も嶋から出ず修行 82歳で没した。その他有名無名の修行僧があの岩窟で座禅 瞑想の修行に打ち込んだのである。この嶋は死者の霊が相集う特別の空間で、今生から後生に移行する中間点 此岸から彼岸えの橋頭堡だったのです。だから鎌倉末期の一遍上人の弟子、他阿弥陀仏は
            紫の 雲の迎いを 松島や 仏みるてふ 名さへなつかし
と詠んでいる。松島は『待つ嶋』なのである。世捨て人 出家人にとって唯一の願いは一日も早く阿弥陀仏のお迎いである。この世の極楽浄土とも云うべき松島であの世の極楽浄土を待つのである。それが松島雄島なのである。その後霊場としての雄島は死者 聖者の供養 参詣の雄島まいりする善男善女が絶えなかったと云うのだ。朱色の渡月橋と呼ばれる橋によって陸地と結ばれる雄島は、南北200m 東西僅か50mの小島であるがここに古代から現代までの松島の歴史が凝縮されていてその密度 質量は半端でないようだが意外とここを訪れる観光客は少ないのである。日光見ずして結構と云う勿 というが雄島見ずして松島を見た とも云うべきでないのではないか。景色 風景だけが松島ではない事を知るべきだろう。
(宮城県の歴史 平凡社 宮城県の歴史 河出書房新社 松島町史)(平成15年9月4日)
この碑には板状の粘板岩の表面を上下に区画し、上欄には縦横おのおの7.8cmに一条の界線で区切り、その中央よりやや上に梵字の阿字を大きく表わし、その右に「奥州御島妙覚庵」、左に「頼賢庵主行實銘并」と楷書で記してある。下欄には、縦1.68m、横0.97mに一条の界線をめぐらし、その中に18行643字の碑文が草書で刻まれている。碑文は松島の歴史を物語るだけでなく、鎌倉建長寺の10世で、唐僧の一山一寧の撰ならびに書になる草書の碑としても有名である。(高さ335cm、鎌倉時代 ネットより) 碑が見れないのが残念だ
 

 
 芭蕉と同行の曽良旅日記には
御島 雲居ノ座禅堂有 ソノ南ニ寧一山ノ碑之文有 北ニ庵有 道心者住ス  とある
 
曽良の句
松島や 鶴に身をかれ 
    ほととぎす


奥の細道で芭蕉
雄島が磯は地つづきて海に出でたる島也 雲居禅師の別室の跡・座禅石など有り  将
(はた)松の木陰に世をいとふ人も希々見え侍りて落葉・松笠など打ちけふりたる草の庵 閑に住みなし いかなる人とはしられずながら先ずなつかしく立寄るほどに月海にうつりて昼の眺め又あらたむ・・・
とある
                           雄島 其の2