周作は16歳の時父幸右衛門とともに千葉松戸に旅立ちその後中西一刀流の浅利又七郎に学ぶ 然も千葉と云えばあの頼朝をして「千葉常胤は第2の父上なり」と言わしめたほどの信頼を得た将門の末裔でその次男相馬師常は奥州相馬の祖で重胤の時福島相馬に下った。その相馬藩士で北辰夢想流の千葉幸右衛門の次男として花山村の貧農の子として生まれたという。後に幸右衛門は花山村の千葉吉之亟の婿養子になる。➡








彼は剣豪というより名実業者だったらしいのだ
➡ こんな山奥にまで頼朝の影響ある事とは驚いた。以後周作は北辰一刀流の剣術道場玄武館を江戸の一等地神田小玉が池に作ったのは皆さんご存知の通りで62歳で没するまで生涯門弟6500名と言う日本一の剣術指南となった事で知られている。奥羽山脈の山中の貧農の子が江戸一の一等地に3300坪の後楽園球場程の地主に成り上がったのは実に現代のジャパニーズドリームと言っても良いのではないか(参考 歴史への招待 NHK 千葉氏探訪 千葉日報社)
 因みに江戸幕末三大道場は技の千葉周作の北辰一刀流玄武館(山岡鉄舟・清川八郎・坂本龍馬等) 力の斉藤弥九郎の神道無念流の練兵館(桂五郎・高杉晋作等) 位の村井春蔵の鏡新明智流の士学館(武市半平太・上田馬之助等)であるあると言う 
 玄武館にあった本物の看板だそうす
左・下 国指定史跡 
仙台藩花山村寒湯番所跡
仙台藩27か所の関の一つで仙北御境目寒湯番所と称した 秋田領からの出口を扼する山峡の要害の地であったという の四脚門は安政2年 の検断所は安政4年に建てられた物です 番所は明治2年の関所廃止令で廃止された
秋田県へ抜けるこの国道298号(子安街道)は4月9日でもこの番所で通行止めでした
音無の滝 其の3 
上 千葉吉之亟の墓 とあり肩書きには 相馬藩士北辰夢想流指南 とある。彼の父千葉道胤が相馬中村藩の御前試合で破れたのでここ栗原郡に移り住んだという 肩書きには 相馬藩士北辰夢想流指南 とある。周作は日本一の道場主であり日本一の剣豪であるとあるが腕はそうでもからなかったらしいのです  橋には剣豪のレリーフもありました  花山番所検断所跡
パンフにあった周作の歌
思わじと 思へばまさる 起ふしに なほ思はるる 君がおもかげ
春風や 駕籠のすだれを 吹き上げて
 はなぞちりこむ 東路の旅
打ち死にと どうせかく碁の 勝負にて かう白くろの 目ももたれまし