今鬼首、昔鬼切部と呼ばれた 伝説では涌谷篦岳山中の夷俘大竹丸(高丸)が頑強に田村麻呂に抵抗したが破れこの地に逃走したが遂に斬首されたので鬼切部となった云う 又これとは別に篦岳で斬首された大武丸の首が遠くこの地飛んできて岩に咬つき無念の雄叫びを上げたからとも云う
勝者の編纂による陸奥話記では「六箇郡の司に安部頼良なるものあり、是同じき忠良の子なり、父祖忠頼東夷の酋長として威風大いに振い、村落皆服し、六郡に横行す」とある そして奥六郡をを出て栗原・玉造・賀美郡の山地にまで勢力を拡張した 「貢賦を輸せず、徭役を勤めず、代々驕奢振る舞い・・・・」となり遂に国司藤原登任の登場となる
 今も荒涼としている鬼切部古戦場跡 右の鬼切部城跡から見下ろした ここで今から1000年前前9年の役の前哨戦となる戦があったのだ 国司登任は都へと逃げ帰り源頼義・義家の出番となったのである
上左 白い苔の碑が芭蕉句碑

右 鬼切部城跡

 玉造柵から鬼首を経て雄勝郡至る羽後街道は多賀国府から秋田出羽柵への最短距離で重要な軍用道路であった この道を南から陸奥守藤原登任 北から秋田城介平重成が鬼切部城を目指したが共に敗れた
  
 
沢子の御湯 其の4