陸奥には有名な歌枕の松として3っつある。岩沼の武隈の松 栗原郡金成町の姉歯の松 そしてここ多賀城の末の松山の松である。総て宮城県にある。1350年宗久は陸奥回遊の「都のつと」で『・・・さてみちのくの国たがのこふ(多賀の国府)になりぬ。それよりおくのほそ道といふかたを南ざまにすゑのまつ山にたずねゆきて松原ごしにはるばるみわたせば、げになみこすやう也・・・その日くるるほどに、しおがまの浦につきぬ』とあるが、300年後芭蕉は奥の細道で『それより野田の玉川 沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造りて末松山といふ。松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契りの末も終にはかくのごときと、悲しさも増さりて塩釜の浦に入相の鐘を聞く』とある。同じ末の松山に立っているが感ずる所が全然違うのは興味深い。芭蕉は周りの景色には殆ど関心をもってない風なのだ。藤原興風の(9世紀末期頃)  
             浦ちかく ふりくる雪は 白波の 末の松山 こすかとぞ見る
に始まる末の松山はどんな嵐や強風による大波にも絶対に越える事が出来ない喩えとして使われてきた。それが何時の間にか『 男女間の固い約束 絶対に変わらぬ愛 深い契りを表し有り得ぬ破局の喩え』として使われるようになった。清少納言の父 前ページの清原元輔の歌は末の松山を浪が越してしまうと言う絶対ありえないはずの愛の破局の歌なのです。『心かはりてはべりけるをむなに人にかはりて』と詞書にかいている。『愛する人の心変わりが浪越す』なのである。私の心は末の松山よ と口にし 詠まれた歌の数だけ人の心変わりの数があったのでしょう。何とも情けないが多賀城市史の中の『多賀城と文学』の中に『かの末の松山は まことに波の越ゆるにあらず。山より遥かにのきたる海の波の、山の端より見越されて、越ゆるやうに身ゆるなり』 とあるのも面白い。言い訳と弁解が男と女の間には常に繰り返されているのが。ところで芭蕉の奥の細道『はねをかわし枝をつらねる』は白楽天の長恨歌 あの玄宗皇帝と楊貴妃の永遠の愛を詠んだ         
         天に在りては 願わくば比翼の鳥とならん
         地に在りては 願わくば連理の枝にならん

からきているが 末の松山にある樹齢800年の2本の古松をして連理の枝に例えていて その下には末松山宝国寺のお墓がある。いかに相思相愛の二人でも行く末はかくの如く死別が待っているのみだ。いかんともしがたい別れの象徴のお墓を通して人生の空しさを書いているが 宗久はそうゆう感情はなく本当に歌に詠まれた様に末の松山から見た真近にある海の美しい風景を書いているのである。所でこの『末』の意味が又不明なのであるが『末』があれば自然発生的に出てくるのが『本』で更にその間に『中』があっても可笑しくないのが日本人だ。案の定岩切に本の松山(本松山)東光寺があるのです。そして中の松山は現在多賀城市との堺近くの仙台市宮城野区福室にある中埜(の)山誓渡寺(せいとじ)の事である と書いてある。誓渡寺のご住職の話では『元々寺はここから東1km位の出花(いでか)にあったが火事の為ここに移転した。今そこに松はない』とのインターホン越しの話でした。地図には『中野出花』があり中野は中の松山の『中のから来てるのだろう然し今街中誓渡寺はコンクリートで木々はなく、東光寺には杉木ばかりで松はない。(平成15年5月4日)(参考 多賀城市史) 
末の松山 
其の2