末松山宝国寺 末の松山  多賀城市八幡
後ろに見える松が末の松山の松  山らしきものは見えないが末の松山なのである 簡単に波も越えそうであるが3.11大震災でも浪は手前で止まりました
 
多賀城市史
に『・・・しかしこの松が9世紀初頭のものかとなると疑問が残る 植えついだとしても記録がない 研究者の中にはその丘が末の松山であるとし その近くまで海があったと説く人もいるが2000年前の海岸線も今日とそれ程変動が無かったと言うのが考古学者の通説である その理由は貝塚の分析状況を精査する事により証明される』と野暮なことを記している
  ➡我々にそんな事はどうでもよいのです 後拾遺和歌集の元輔や古今和歌集の詠み人しらずの歌だけで十分なのです あとは個人々が勝手にイマジネーションを膨らませればそれで十分なのですから 奥羽観蹟聞老志には「丘上、青松数十株あり」 封内風土記には「青松数十株」 地元宮城郡八幡村風土記御用書出(1774年)には「末松山之松 5本 但し先年8~9本に御座候処 御用木に罷成当時5本ニ御座候事」あるが今はご覧のように2本である 松食い虫に犯されないのを祈るばかりだ
上 末の松山    奥の細道の碑
奥の細道とは県道35号線の事
であり芭蕉はこの道の名を陸奥紀行文のタイトルにしたのです 本松山東光寺の入り口にある

   

本松山東光寺 本の松山 宮城野区岩切
  左の太い松が末の松山の松 右側の斜めの小さい松が後継の松
末の松山 其の3
  中埜山誓渡寺 中の松山  宮城野区中野
 この寺が出花当時中の松山の寺とされてるが今や鉄筋コンクリートの超近代的ビルの寺だ