現宮城県岩沼市は古来武隈の里とよばれている。この地は平安初期の和名類聚抄(930年代)によると名取郡であり その7つあった郷の内玉前郷 指賀郷が岩沼にあたるらしい。ここは古来交通の要所で東山道と浜街道との分岐点であり又名取郡衙から有耶無耶の関を越え出羽に到る出羽街道とも言うべき官道にも近い所なのだ。だから・・・柴田 小野 玉前 名取・・・と駅馬傳馬の駅が置かれていたし 一説に源 重之(1000年前後60余才で死亡)が建立した武隈の舘には一時の陸奥国府説さえあるし 又この舘は多賀城途中の旅館として多くの著名な陸奥守の宿舎として利用されていたと言う。勿論現在も国道4号線と6号線、東北本線と常磐線の分岐点である。この武隈という変わった地名は当然阿武隈川の河口とは無縁ではないでしょう。対岸亘理の逢隈の水神山の「安福麻河伯神社」につながるアイヌ語のアブクマが古文書に阿武隈とあるが平安時代に「阿」の字をとって「武隈」となったと言う。詠まれた数に於いて屈指の歌枕である武隈の松は日本3大稲荷で有名な竹駒神社の北側にある。別名二木の松ともいう。この有名な松の初見は前ページの藤原元良の歌である。彼は詞書に『陸奥の守にまかり下れりけるに、武隈の松の枯れて侍りけりるをみて、小松を植えつがせ侍りて、任果てて後又おなじ国にまかりなりて、かの先の任に植し松を見侍り見て』と前書きして詠んでいる。彼は906年ごろ陸奥守になっているといわれる。又藤原清輔の奥儀抄に『武隈の松は何れの代より有りける物とも知らぬ。
人はうへし時と詠まれたればおほつかなくもやとて書いて侍る なり。此の松はむかしより有るにあらず。宮内卿元良といひける人の任に舘の前に始めてうへたる松なり。陸奥の舘は武隈といふところに有。此の人ふたゝびかの国になりて後のたひよめる歌也』とあり二度陸奥の守として武隈の国府に居たと事は明らかだとある。
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その後『源考義切りて橋につくりのち絶えにけり・・・・』とみちのくの古代史(刀木書房)にある。この様にこの松もここまで生き残る苦労は並大抵のものではなく危機一髪の連続だったようだ。岩沼郡史によれば二本目は藤原元良 三本目源満仲 四本目橘道貞(元和泉式部の夫)により植継がれた。芭蕉が見たのは五代目で 六代目は伊達重村 現在の七代目は岩沼南町の呉服商作間万吉氏が玉浦二野倉あったものを植継いだそうである。同じ武隈の鼻端の松に比してその過保護ぶりの程が伺えるのである。何故か?隣には有名な竹駒神社がある。842年(承知9年6月)に僅か2ヶ月間の任期だった陸奥守小野 篁(遣隋使小野妹子から五代目)が京都稲荷山に詣でその分霊を勧請して下向創建したという。あの小野小町の父とも叔父ともいわれる人物だ。その20年後に能因(橘 永ト)が東下りしてここに庵を結んだ。別当宝窟山竹駒寺の開基である。その他多数の陸奥守や西行をはじめ多くの文人がこの神社に足を運んでいる。武隈の松はきっとこの立地の良さが幸いしたのかも知れないのだ。それにしても芭蕉の奥の細道で『武隈の松にこそ目覚める心地こそすれ・・・・・・』と絶賛されたこの松の魅力が1000年以上も長続きするのは何故だろか?何故こんなにもこの松は人々を惹きつけるのでしょうか?。(平成14年10月15日)(岩沼市史 私たち岩沼の地名の由来 岩沼市 みちのくの古代史 刀木書房 名取郡史)
右 武隈の松(二木の松)
右の写真は現在の7代目の松であるがこの名所の公園内に既に8代目の松が準備されているのである(次頁) 陸奥の歌枕の中でも歌の数で屈指の多さを誇る宮城県史蹟名勝 天然記念物(図書刊行会)によると二木の松は二股の松と思い誤っている
実は国府舘前に二本植えた事が源 重之の
武隈の 松一本うれにけり 風にかたらふ こゑのさびしさ
の歌で明らかだという 二本の松の内一本の枯れた事を詠んだもので元は二本であった事を知るべし とあります 然もそれは黒松と赤松である と記してある つまり二木の松とは二股に別れた松の意ではなく二本の松の意味なのだという 果して当初は二本の松の木なのかそれとも二股に分かれた松だったのかはっきりしないようだ 現在のは一本の松が根本で二つに別れている(次頁) |
国指定名勝 奥の細道の風景地 武隈の松
芭蕉が 目覚める心地 を覚えた松です
武隈の松 其の2
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