左 能因法師の開基の竹駒寺
(江戸時代までは竹駒神社の別当寺) 竹駒神社より東数百mにある  能因は出家前は橘 永トと云ったが恋人の死が出家の動機らしい 彼の歌に
 年を経て つれ亡き人を 恋ふる身は 
         涙の河の 身を尽くしかな
 黒髪の 色かはるまで なりにけり 
        つれ亡き人を 恋わたるとて
 恋わたる 涙の河の しがらみは 
      たまづきばかり みるまなりけり

とあり彼は相当落胆したらしい 橘系累則光(陸奥守・清少納言の夫) 季通(則光の子) 道貞(陸奥守・和泉式部の夫) 為仲(陸奥守) 末春(義経を秀衡に紹介した金売吉次と言う? 橘次つまり橘の次男の意味というが定かではない)等陸奥との関りが深い 能因も2度陸奥を訪れている  岩沼市桜1丁目
右 玉前の柵跡?
岩沼市阿武隈川左岸の自然堤防上の立地にあり東山道と浜街道の合流点にあり平安時代の延喜式に東山道の駅家として玉前柵(駅家)の名が見える この遺跡からも古代の遺物が出土していて玉前柵跡と推測されている 現在もこのあたりは玉崎と呼ばれている
 右 八声の橋 岩沼市南長谷
岩沼市玉崎の旧4号国道・奥州街道沿いにある八声の橋の碑 この碑には『第54代仁明天皇の御世の承和9年陸奥守小野篁卿が国府鎮護の大神を奉じて京より下り鎮守府に赴かんと当地にさしかかった折霊狐の八声鳴くのを聞き神意に導かれて現在の館南の地に竹駒神社を創建されたと伝えられここにあった橋を八声と呼んだ あづま街道の南の端あって阿武隈川の近くに・・・・」と彫られていた 近くのおばちゃんに聞いたが橋は昔に無くなった と話してた この碑の75m南西に橋があったと彫られてる
左 八島家住宅(旧検断屋敷)
 八島家はもと奥州街道岩沼宿本陣と南町検断を兼ねていた家である 本陣は他藩の大名や幕府役人の宿泊所となり仙台藩主伊達氏の宿や昼食をとる御休所と呼ばれた 旧奥州街道沿い

           岩沼市中央2丁目
   武隈の松 其の5