ざっとこんな調子なのだが小野小町家集 玉造小町子壮衰書 江家次第 伊勢物語 袖中抄 無名抄等多くの書物 歌学書に書き留められ玉造小町イコール小野小町伝説が生まれたようなのだ。玉造の小野の地名はこの地に比定されている。 古川市北西部に夜烏と言う風変わりな地名がある。そこに小町の墓や碑 子松神社がある。この子松も本来小町を弔った小町神社ではないかとも言う。東北弁では「ち」はズーズー弁で「つ」と発音されるからだ。 又彼女が百日日参に洗盥水に用いたという小池が氷室薬師堂近くにある。このように死後までも人々を悩ませる美女小町を紀貫之は『あはれなるやうにて強からず いはば よき女の悩める所あるに似たり 強からぬは 女の歌なればなるべし』と古今和歌集序で述べている。古川市は暴れ川玉造川の恩恵によって米のササニシキで其の名を全国に馳せるが、実はもっと奥深い歴史と文化と伝説の町でマニア好みのする所でもあるのです。(参考 古川市史 古川市 小町伝説を歩く 鰹猿ナ文庫 玉造小野子壮衰書 滑笏g書店)
小野小町老衰落魄して出羽へ戻らんとここ夜烏の里に来たり居り 又は今の西大崎村氷室の薬師に日参せんがため同村大窪なる修験の家に居たる事ありなどするうち終に往生す 畠屋敷の古墳ある所に斃へたるを土地の者之を哀れみ葬り土饅頭を作りたるなり 又此墓より東北五〜6丁なる小野骸堂の在りし所は小野の髑髏のありし所なれば・・・(宮城県史蹟名勝天然記念物調査報告)
秋風の 吹くにつけても あなめあなめ(小町)
をのとはいはず 芒おひけり(業平) 小野小町集町 |
小野小町の生涯については謎が多く出生の地や死亡の地については正確に把握されていない この墓も真偽のほどは定かではないが往時の風流人が小町の墓を建て多くの人が墓参に訪れた 古川市教育委員会説明板 |