千賀の浦或るいは千家の浦とも呼ばれ、,国指定名勝の地松島の一角を占める塩釜の浦程1200年以上も前の都人から21世紀の現代人の心と胃袋を捉えて離さない(鮨店密度日本一と海産物市場の買い物で)名勝の地はない。勿論当初松島は千賀の浦を意味し塩釜の方がずっと有名であった。それは陸奥出羽国按察史源 融(822年〜895年)の逸話が如実に物語っている。伊勢物語に『左のおほいまうちぎみ(左大臣)いまそがりけり 賀茂河のほとりに 六条わたりに家をいとおもしろくつくりて 住み給いけり この殿の面白きをほむる歌よむ。・・・・塩釜に いつか来にけむ 朝なぎに 釣りする舟は ここに寄らなむ・・・と詠みけるは 陸奥の国にいきたりけるに あやしくおもしろき所々多かりけり。わがみかど60余国の中に塩釜といふ所に似たる所なかりけり』とある。彼は六条河原(現京都市下京区)に大邸宅を建てその邸内に塩釜の浦に似せてその庭園をつくった。さらに彼は毎日難波の海から塩水を運ばせ藻塩を焼き煙を絶やさずその風情を楽しんだと言う。それほど彼は未知の塩釜の浦の魅惑的光景の虜になっていた(彼は川のそばが好きだった様だ 宇治川のほとりにも後に国宝平等院鳳凰堂になる別荘を持っていた)。864年(貞観4年)彼は按察史として多賀城に下向した。塩釜神社表参道大鳥居の道路を挟んだまん前に融が岡と言う標石がたっています。彼が塩釜の余りの景観に神社の前の渚に後世人々が融公亭と呼ぶ別邸が在った所と言う。今の塩釜高校辺りだ。いかに塩釜の人々が源 融に愛着を持っているかの証左だ。実際は彼は遙任で陸奥には来ていないとの説すらあるのだが。大鳥居と言えば千賀の浦のもう一つのシンボルは東北鎮護 奥州一ノ宮正一位塩釜大名神である。社領1400石を有し武甕槌神 経津主神と塩土老翁神(しおつちのおおじ)の3神を祀る。なんとなく塩爺(元財務大臣)を連想させる神様が主役なのだが決して老人の意味ではなく深い知識を持った人を意味するらしい。この塩土老翁神はイザナギ尊の子事勝国勝神の別名で海上交通を支配し山幸彦に海宮のありかを教えた神様で此処塩釜で製塩法を教えたと言う。その神事が今も4っつの鉄釜(塩釜の由来)を御神体とする末社御釜神社(通称お釜様)で毎年7月5日行われている。所謂藻塩焼神事で古代の製塩方法を今に伝えていて広く松島湾及び諸島で発見された製塩遺跡の存在に裏付けられている。このお釜さまを北へ200mも行くと塩釜神社裏参道の大鳥居に突き当たる。そこに芭蕉止宿の地の説明板が立っている。明治4年に廃寺になった別当法連寺近くである。翌日芭蕉は塩釜神社に詣でたあと『・・・日すでに午にちかし 舟を借りて松島に渡る その間二里余り 雄嶋の磯につく』と奥の細道に述べているが、その乗船の地が宿の東200m位の所にある。そこは今海から600mも奥にあり壱番館ビルの前の交差点になっていてもはや渚の面影すらありません(往時は塩釜神社のある一森山麓までが渚であった)。いくら書いてもきりがない塩釜ですが最後に鹽竈について市の公式文書では「竈」の字を用いるのだそです。釜と竈では字義が違うのだそうです。釜は鍋釜の釜ですが 竈は『かまど』を意味する。塩水を入れる釜よりそれを焚く『かまど』の方が大事だったのかも知れない。今塩釜は蒲鉾生産と1平方km当たりの寿司屋の数で日本一です。(参考 塩釜神社栞 奥の細道の旅ハンドブック 三省堂 よみがえる中世 平凡社 宮城県の地名 平凡社 市HP))(平成15年7月28日) 塩竃の由来 フリー百科事典ウィキペディアによると塩土老翁(シオツチノオジ)の神話は中々面白い 神武天皇に「東によき土地在り」と大和の話しその情報を元に神武天皇は東征を決意したと言う 又古事記の海幸彦・山幸彦の話では兄海幸彦の釣り針を無くし困っていた山幸彦を見てその訳を聴き「よい方法を教えよう」と綿津身(海)神の宮への道を教えたり 更に塩釜神社社伝では武甕槌命(タケミカズチミコト)・経津主神(フツヌシノカミ)を先導して諸国を平定しここ塩釜に着いたが前者の2神は直ぐに帰ってしまっても塩土老翁はここに居残り製塩・航海・漁業ノウハウを指導した塩釜のルーツとなったと言う 塩は生命・調味料の基礎であり葬式やお祓いで身を清める塩であり地鎮祭や大相撲など塩は縁起物としてその浄化力を与えられたのはやはり海洋国からだろう 砂糖の産地なら砂糖に浄化力を与えられた事でしょう  曾良旅日記『出初ニ塩釜ノカマを見る』とあり噂の御神体の4つの鉄釜見ている
      左端 四つ御神体の御釜が鎮座している建物 釜に湛えられている水は常に溢れることも涸れることもなく世に異変がある時はその前触れに水の色が変化するとの伝説がある 
左中 塩土老翁神を祀る 日本書紀でも神武天皇を東方の美しい山々国である大和へ案内した神と言う 勿論製塩法をレクチャーした情報屋さんの神
左 ほでの濱の碑 辻に建つ標柱の側面には「釜の前」の文字があり文字通り御釜神社の門前であることをあらわす。一方、「ほでの濱」は千賀の浦唯一の砂浜で鹽土老翁神が製塩を教えた地として、「ほで」の古語は突き出た浜辺(秀出・穂出)、塩を焼く火勢(火出)、船出(帆出)など諸説あるらしい

千賀(塩釜)の浦 其の2
  
右 新河岸町・御釜前板橋碑 この辺りも海岸だった証でしょう