融が岡の碑 源 融の屋敷跡と言う融公亭の地
左下 融が岡 貞観2年(864)陸奥出羽按察使として国府多賀城に下向した河原左大臣源 融が塩竃の奇勝を愛してこの岡に融公亭を建てた伝承に由来する 塩竃神社表参道正面の反対側にある岡
 

 高低几号標柱
この標柱は海の干満の平均値から求められた標高の基準となる零メートル地点を示すもの 明治9年日本地図作製の為東京-塩竃間の水準測量に伴い各所に設置された この高低記号標柱は独立した石柱としては現存する唯一のも このことはここ表参道付近まで入り江であった証拠で当時の塩竃の姿を伝えている貴重な遺跡 正面大鳥居の隣にある
左 拝殿右宮の文治の燈篭

千賀(塩釜)
の浦 其の3



文治の灯篭 1187年(文治3年)奥州藤原の3代目秀衡の三男和泉三郎忠衡が父秀衡の命に従い源義経への忠誠を誓いこの灯篭を寄進した かれは義経に味方した為兄泰衡に23歳の時殺されたがその2年前であった



 拝殿左宮の文治の燈篭 背後の木は県指定天然記念物 多羅葉で樹齢500年
 煙波亭跡と芭蕉晩鐘の碑文
融が岡の愛宕神社への途中にある 塩竃神社の禰宜で仙台藩内の代表的文人・学者の藤塚知明の別邸跡地 晩鐘碑文には奥の細道一節の内塩釜の浦縁の部分のみが知明の書で彫られているが裏面も含めてとても読めない 

上右 国指定重要文化財社桜門(随身門)
堀河天皇の御歌
 あけくれに さそな愛てみむ 塩竃の 桜の本に 海人のかくれや 
前の枝垂桜は京都平安神宮の桜の親木だが4月15日でも残念ながら蕾は未だ固い


 長明燈 享和3年(1803) 大阪から大船で運んできた御影石の大燈篭で仙台藩御用の米商人大阪弁屋山方重芳の寄進 櫻門の裏にる