あやうしと 見ゆるとだえの 丸木橋 まつほどかかる 物おもふらん       後拾遺和歌集 相模
かち人も 駒もなづめる 程なれや ふみも定めぬ とどろきの橋          回国雑記 准后道興
いさや又 書もみられず ともすれば とだえの橋の うしろめたさに       夫木和歌集 源 俊頼
をちこちの 人そかよはぬ すみわたる 月にとだえの 橋なかりけり    夫木和歌集 権大納言実家
いかにして とだえの橋に ならひてか 渡らぬ先に かくはあやふむ    夫木和歌集 正三位季経 

宮城県の歌枕で始めてこの名を知った時は奇異に映ったのを今も鮮明に記憶している。有名な歌枕がごろごろしている仙台近辺で 今も有るのか否か 有れば何処なのか どんな辺鄙なところなのか 朽ち落ちそうな丸木の橋なのか と想像だけが一人歩きした事を。それは小鶴の池もそうだったのだが。それほど歌枕の認識がなかったのです現在立派な今市橋の北のたもとに今市橋の道標があり其の裏に『途絶えの橋(轟の橋)』と記載されている。余りにも立派な橋で驚いたものである。大日本地名辞書(吉田東吾)によると『仙台より今市村にかゝり冠川 土橋を渡り東光寺脇を3丁行きて・・・』とあり 更に『・・・又本の道に戻り土橋より1丁行く、 左の方に小橋3っつある中を、緒絶の橋といふ、所の者は、轟の橋と答ふ・・・』とある。だから正式な轟の橋は現在の今市橋より下流60m位で岩切大橋との間にあった土橋が轟の橋である と書いてあるこの橋 我々が今想像する田んぼや山奥の丸木橋や土橋ではなくれっきとした官道(東山道 奥大道)つまり一級国道に架る重要な橋だったのです。有名な宮城野から2里ばかり来てこの橋を渡り直ぐ直角に右折し3kmも行けばもう多賀城国府なのです。直進すれば阿弖流為 母禮(モレ)の里 江刺・胆沢に通じる避けて通れぬ重要な橋なのです。頼朝の奥州征伐後ここ岩切に国府が置かれたため この土橋を挟み冠川の北側に冠屋市場 南側に河原宿五日市場がたち貨幣経済で賑わったという特異な町を形成していた所にある重要な橋だったのです。ただ当時舟運が塩釜外港の湊浜からここまで来ていたので今に比べ相当な水量が予想され 土橋ではカチカチ山の狸の泥舟みたいになっちゃうのでは? と鉄筋コンクリートの橋の上に立ってひねくれた想像をしながら往時を偲ばせる橋だ。又上記の緒絶の橋は宮城県古川市の歌枕なので轟の橋の事ではないだろう。或いは勘違いではないかと思はれる。(平成14年12月30日)(岩切 宮城野区役所 日本地名辞書)

上 本松山東光寺 
真向いの轟橋を渡ると左の道標がある 大きな字で塩釜街道(金華山街道)とあり今市 そして小さい字でここが途絶えの橋(轟の橋)が有った所と書いてある  後ろの河が冠川 以外に大きな川である ここは塩釜の外港 湊浜と舟運でつながっていた船着場だったのです
 源頼朝が奥州征伐でこの轟の橋を渡る時風でその冠を飛ばされたので冠川の名がついた正面の道路が奥の細道で奥の丘陵と森が東光寺と梵鐘 古代が甦るT字路だ
 
朝日に輝く轟の橋(途絶えの橋)手前の道が奥の細道である宮城野より凡そ8キロのところだ  東光寺から見た轟橋・七北田川・奥の細 
東山道が宮城野原をとおり岩切はいると丘陵高森山と東光寺(正面)にぶつかる 其の麓を冠(七北田川)でそれを横切るのが轟の橋だ 古代中世にはこの60m位下流だったらしい

右端 本松山東光寺梵鐘より朝の冠川(現七北田川)を望む 手前が整備された奥の細道 と轟の橋(現今市橋) 右折すれば多賀城に至る 左折すれば十符の菅薦の名所 十符の谷 十符の池に至る 下流にわずかに見えるのが岩切大橋で当時の土橋はその中間だったようだ 


轟の橋(途絶の橋・土橋)