宵の薬師堂 市指定文化財東光寺磨崖仏 東光寺
 疫病を癒しこの世の安楽を招く現世利益の仏 薬師如来 岩窟に掘られた穴薬師である ここ東光寺のものを宵の薬師 七ヶ浜湊浜のものを夜明けの薬師 利府菅谷のものを夜中の薬師と云う 1200年前滋覚大師が一夜にして彫った云ういわれがある
 

夜中の薬師堂 菅谷の磨崖仏 下・下右端  利府菅谷 東光寺から北3km
右 菅谷の板碑 正応2年(1289) 薬師堂の前 信仰の対象で梵字アン無量寿如来の意味が込められている
左 式内社伊豆佐比賣神社
菅谷薬師堂の近くにある

ここは奥州髄一の豪農九門長者邸宅屋敷跡である この屋敷の召使の醜女(悪玉)を奥州征伐の田村麻呂が見染めて延暦18年799)
彼女は男子を出産した 名を千熊丸と言い13歳の時に都へのぼり二代目田村麻呂将軍となったという伝説がる(利府教育委員会)








轟の橋
途絶の橋)
 其の2
 


古代末期の頃この辺りには三っつの松山があったと言う。多賀城から見ての松山だがその一つがここ本松山東光寺である。もう一つが多賀城市八幡にあるご存知名勝末松山宝国寺である。だが中の松山の所在がはっきりしないのです。宮城野区中野に中埜(の)山誓渡利寺がある。昔この寺は現在の出花にあったと言うのです。ここにある木幡邸近くに数本の巨松があったと言うのですが昭和45年頃倒木の危険から伐採されたと言う。この中野の地名こそ中の松山から来てるのではないかと思われる。中埜山誓渡寺は中の松山誓渡寺が変じたものでしょう 

上右 東光寺は岩切で最も古い寺院で境内には鎌倉時代から南北朝時代にかけて供養碑が数多く残り当時のものと思われる磨崖仏(市内唯一の物)も残る 裏手には岩切城址や古墳時代末期の横穴群がある
 
 
嘉暦の板碑 東光寺境内にある
1326年のもので奥様の話では宵の薬師よりも価値が在ると言っていた