遠望浦
見し人も とうの浦風 音せぬに つれなく澄める 秋の夜の月 橘 為仲
武隈の 浜辺に立てる 松だにも 我がこと一人 ありきとやみる 源 重之
『とうの浦』と呼ばれ聞き馴れない地名であるが現在は玉浦と呼ばれている。岩沼市の国道4号から東部一帯太平洋までの凡そ二里四方の平坦な田園地帯である。日本書記で『茲に日本武尊、即ち上総より転じて陸奥国に入る。特に大鏡を、王の舟に懸け、海路より葦浦を廻り、玉の浦に渡り、蝦夷の境に至る・・・・・・』とあり、この玉の浦は現在の玉浦一帯を指していると伝えるのです。又葦浦は現在の亘理町荒浜の鳥の海付近ではなかろうか ともある。何とロマンある所でしょう。然し玉の浦 葦浦は千葉県銚子の以南の海岸の説もあり神話の域は出ないがこの辺が又古代の夢のある所でなのす。 歌を詠んだ陸奥守の橘為仲はあの橘の諸兄(葛城王)の11代目の孫にあたる。8代目にはあの情熱の歌人和泉式部の夫(後離婚)であった道貞 10代目には陸奥ゆかりの能因 又8代目にはなんと清少納言に子供(9代目則長)をもうけた陸奥守則光がいる。彼は清少納言の最初の夫だが余りに無骨で清少納言とは反りが合わなかったらしいのです。この様に、橘家系累には陸奥に結構かかわりが多いのです。またその清少納言と恋愛関係にあったとされる実方のお墓がこの近くの名取笠島にあるが何ともおおらかな時代でもあったようである。余談ですが則光は夜中に女の元へ通う途中で夜盗に襲われたが逆に三人を斬り殺した噺が『今昔物語』に載っています。彼は腕は立つがデリカシイーの無い男だったらしい。元々橘家は武門をもってなしていた家系なのです。ところで阿武隈川と五間堀川と太平洋に囲まれた玉浦はいま一面平坦な田園地帯であるが、歌に詠まれた古代には恐らく葦や葭や薄が一面に繁る湿地帯であったと思われるのです。ここより数十キロ北には日本三景で芭蕉に『笑うが如し』と言わせしめたあの風光明媚な一級の歌枕『松島』があり そうゆう意味での華やかな歌枕では決してないのである。私からすると皆んなで『見る歌枕』ではなく一人で『感じる歌枕』と思うのです。秋を詠んで『・・・・・・・秋の夕暮れ』で終わる定家 西行 寂連 良暹(ぜん)の所謂四夕(せき)の歌にぴったりの所なのです。岩沼市文化財だよりに 今なお古の風情としての玉浦八景が載っている。古人が中国 湖南省の瀧湖八景に因んで名ずけたといわれるが、数キロに及ぶ松原とその傍を流れる伊達政宗ゆかりの貞山堀一面の田んぼの風景の以外は何もない所だが実に日本の原風景がある魅力的な所だ。武隈の浜辺もきっとこの松原の美しい遠望浦のことでしょう。古来岩沼は武隈の里と呼ばれた。
(平成18年9月13日)(玉浦の地名の由来 岩沼市 平安人名辞典 高科書店)
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