『つぼのいしぶみ』と呼ばれるこの歌枕ほど古今東西の学者をはじめ文人墨客 風流の人々を悩まし、そしてこれからも悩まし続ける女性は無いかもしれません。そしてそれは多賀城のマドンナとしてみならず陸奥の象徴であり、ただの石ではなく日本の宝石として古代への永遠の夢とロマンを与えてくれる石文なのです。この碑 深窓の令嬢の如く、又ベールで顔を覆ったイスラムの女性の如く中々その正体を見せてくれないのです。写真のように覆堂の 然も目の小さい格子に覆われた碑はその正体を見せようともしない態度こそ まさにその神秘的雰囲気と永遠の魅力を我々に与えてくれるのです。この碑は多賀城祉政庁正面にある南北大路の外郭南門前の奥の細道(新塩釜街道)そばの小丘に建っているのも建立者藤原朝臣朝猟の目立ちがりやの意図を表しているようである。古代奈良時代の続日本記の正史を補う金石文として極めて重要な碑にもかかわらず 其の正体を表さず悩まし続けたために国の重要文化財に指定されたのは何と平成10年6月とつい最近なのもそれを如実に物語っていると思われるのである。更に多賀城にとって困った事には青森糠部の奥の郡にも清楚な美人の壷の碑がある事も悩み深い所なのです。何故清楚かと言うと文字はたったの四文字 日本中央(ひのもとまなか)のみなのです。多賀城の碑は141文字もあるのです。石に責任は無いのです。どちらの石も魅力的で私の心を捉えて離さないのです。
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ここ陸奥蝦夷との対決拠点であった多賀城と大陸・朝鮮半島との交渉の拠点である大宰府はまさしく往時のフロンティアの拠点だったのです。面白い事に大宰府と多賀城は実は歌人大伴家持と深い縁があるのです。彼の父である万葉歌人大伴旅人は太宰師として筑前の国赴任していて家持も10代はじめ一緒に大宰府で生活しているのです。その時の筑前国守がやはり万葉歌人山上憶良である。その後紆余曲折を経た彼は782年(天応2年)に伊治公砦麻呂の反乱に始まる蝦夷との抗争に対して陸奥按察史兼鎮守将軍に任ぜられ783年(延暦2年)には持節征東将軍となり困難な陸奥の経営にあたらざるを得なかったのです。そして赴任後3年5ヶ月785年(延暦4年)にはここ多賀城で67歳で生涯を終えた地でもあるのです。大伴家持はその間にも越中の国富山(746年・天平18年)・薩摩の国鹿児島(764年・天宝8年)と辺鄙な地方の国守を転々と歴任している。藤原氏の台頭と共に栄光の名門の凋落が実に歴然としてる。彼は上司と反りが合わないサラリーマンとしての出世を捨て、歌人としての二束のわらじを巧に履いてその合い間に万葉集の編纂と言う不朽の名作を残したのです。かれこそ会社人間をやめた近代サラリーマンの先駆けだったかも知れないのです。
(平成15年5月1日)(参考 大宰府と多賀城 岩波書店)
壷の碑 |
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