『むかしよりよみ置ける歌枕 おほく語り伝ひといへども、山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り代変じて、其の跡たしかならぬ事のみを爰に至りて疑いなき千歳の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す行脚の一徳 存命の悦び、羇旅の労をわすれて泪も落ちるばかり也』と、相変わらずの名美文。 奥の細道で歌枕慣れした芭蕉にも拘らず涙さえ流させた壷の碑は 平安時代から歌に詠まれていたが実体はなく、不明な歌枕であったが、江戸時代(17世紀中期)にたまたま多賀城祉の土の中から碑が発見されたのです。それが古来歌に詠まれた壷の碑だろうと多賀の碑を壷の碑に比定されてしまったと言う。
奥の細道砂押川に架かるのが市川橋である ここを渡ればもう多賀城だ 古代の大和朝廷の官僚や武人の英雄達も渡った事だろう

二股に建つ追分石
  砂押川にかかる市川橋を渡るとすぐ奥の細道は二手に分かれる ここに上の道標(追分石)が立っている ともに塩釜に至るが左に行けば多賀城祉を斜めに横切り政庁跡 多賀神社 東門 陸奥惣社を通る古代の塩釜街道 右に行けば有名な壷の碑 南門 浮島を通る明治時代に開かれた街道です 奥に見えるこんもりした森の陰に国府多賀城祉がある
追分石にはその真ん中に大きく惣社宮道と彫られていて 左側には左 十ニ丁十三間 塩釜道 右側に右 塩釜新道 多賀城内と彫られている 他に東 野田の玉川十九丁 塩釜神社三十二丁 等6箇所の距離が彫られている
左端 壺の碑に掘られた文言とその意訳
 多賀城   去 京一千五里
        去 蝦夷国界一百二十里
        去 常陸国界四百十二里
        去 下野国界二百七十四里
西      去 靺鞨国界三千里
   此城神亀元年歳次甲子按察使兼鎮守府将」軍従
   四位上勲四等大野朝臣東人所全」也天平宝字六
   年歳次壬寅参議東海東山」節度使従四位上任部
   省卿兼按察使」鎮守府将軍藤原恵美朝臣朝猟修造也
              天平宝字六年十二月一日
 多賀城は 京を去ること1500里
       蝦夷国の堺を去ること120里
       常陸国の堺を去ること412里
       下野国の堺を去ること274里
       靺鞨国の堺を去ること3000里
  此城は神亀元年歳は甲子に次(やど)る、按察使・兼鎮守将軍・従四位上・勲四等大野朝臣東人の置く所也。天平宝字六年歳は壬寅に次(やどる)、参議・ 東海東山節度使・従四位上・仁部省卿・兼按察使・鎮守将軍藤原惠美朝臣朝カリ、修造する也。
                         天平宝字六年十二月一日

  壷の碑 其の2  
 何しろ8世紀半ばの文章で当たり前だが総て漢字なのでやたら難しく見えるが何のことはなく 各地からの多賀城への距離が前半分 後ろ半分が非常に難しくみえるが多賀城を造設した大野東人とリフォームした藤原朝猟の名前とその肩書きがズラズラと書かれているだけなのである(アンダーライン)。この仰々しい肩書きと政庁まえの南正門前の目立つ奥の細道(明治に開かれた新塩釜街道)の脇に所に立っている碑を見みると いかにも朝猟自身の自己PRに見えて現代の名誉欲の強い人を想像され微笑ましいのである。あとは残りがそれぞれの日時(太字)で造営設置は神亀元年(724年)とリフォームは天平宝子6年(762年)とある。リフォームとは言っても再建と言ったほうがよく俘囚の伊治公砦麻呂の乱よる多賀城炎上の再建と言われる。又当時の一里は535mであり現在の4000mの約1/8弱になるので計算してみてください。勿論この文章は縦書きであることは当たり前であるが 『西』については何を意味するかは不明だそうである。 靺鞨国は当時現ロシア沿海州にあったとされる国といわれる。此処多賀城祉は平城京 大宰府とともに日本3大史蹟の一つなのである。