壷の碑 其の3       日本3大古碑 壺の碑
その真偽問題と所在論争で長く人々を悩ませている壷の碑日本3大古碑としても又有名なのだ。栃木県の那須国造碑と群馬県の多胡の碑である。前者は持統天皇が那須の国造に那須直韋提を評督に任じた事を記したもので文武4年(700年頃)、後者は和銅4年(711年)に多胡郡が建てられた事を記念して建てられたもので藤原不比等(尊)や天武天皇の皇子穂積親王の名も見えるのです。
実に歴史的人物の名が1200年以上の時間と空間を越えて間近に我々に迫るのには迫力がある。特に壷の碑の大野東人はあの壬申の乱大海人軍の名将大伴吹負を打ち破った近江大友軍名将大野果安の息子である。結果的には大友軍は大海人軍に大敗するがそれでも果安は敵大海人政権で弾正台の長官として用いられている事を見ると相当に優秀な人物だったに違いない。
その子東人も初代鎮守将軍(729年) 2代目陸奥出羽按察使(737年)として15年も陸奥経営にあたり多賀城の建設や多賀城出羽柵から秋田出羽柵への直通道路開設などに尽力した人物です。朝猟も不比等の子武智麻呂(南家)の子で仲麻呂の子 つまり不比等の曾孫に当たる。彼も757年7代目陸奥守 760年4代目陸奥出羽按察使 3代目鎮守府将軍で多賀城をリニューアルしたり 桃生城 秋田雄勝城を建てたりと共に有名な田村麻呂の活躍する30~40年も前の話なのだ。このように此処多賀城は古代の英雄たちが今でも生き生きと闊歩する素晴らしい所なのです。ここは陸奥の中心 遠の朝廷(みかど)なのです。
(参考 多賀城市史 多賀城市 壬申の乱 中公新書他多数) (平成15年5月2日) 
   壷の碑のプロフィール
碑をみると高さ196cm 最大幅92cm 最大厚さ70cm 正面は平らに仕上げられたところに文字が彫られているがその他は自然のままの荒削りである 発見当初から碑は壷碑(つぼのいしぶみ)の名で呼ばれている 壷碑は平安時代から歌に詠まれていて『陸奥・遥かなるもの・文』などをあらわす喩えに用いられていると言う それが一体何処にあったかの実態は不明で したがってここ市川村多賀城に結びつく必然性はないのです
 この多賀の碑と壷碑が結び付けられたのが江戸時代以降なので中世の紀行文にこの有名な壷碑が全く詠みこまていないのと符合する(多賀城市史 多賀城市)  平成9年覆堂の解体修理に際して碑の周囲の発掘調査が行われ近世初期に碑が据え直された堀形と古代の据付穴の跡が確認されたことから碑は建立当初からこの場所にあったことが強まり多賀城碑は本物と考えられるようになった多賀城HP) ➡

壺の碑の覆堂 
碑はこの覆いの中にある
➡然し碑は勿論本物だろうがそれが壷碑という保証はないのだ この碑は藤原朝カリの多賀城再建修復の自画自賛の碑とされるが764年彼の父藤原仲麻呂孝謙上皇(女帝)と道鏡との仲を諌めた事により対立し内乱となった(仲麻呂の乱・恵美押勝の乱)  仲麻呂は破れ其の家族は斬首・遠流された  逆賊となった息子の藤原朝カリの作成したこの碑は表の面を下にしてここに埋められたのだ(多賀城ボランティア案内人談)と言う その後孝謙上皇は再復帰して称徳天皇となり益々道鏡を寵愛したのはご承知の通りです そんなことは我々にはどうでもよいのだが何処から見ても壷碑は絵になるのがすばらしいのです 奥の細道で芭蕉も涙したのがこの碑なのです

 
   



  多賀城外郭南門から正殿に向かう南北大路 
登りきると上段画像の南門跡があり其の奥に正殿跡がある 正面南門跡の説明
 この門から正殿まで道路幅は凡そ最大23mだったと言う
 国指定特別史跡国守館跡 山王駅構内前 陸奥の長官や陸奥守の官舎邸宅跡と言われる