上 多賀城祉復元模型  右 この多賀城は右の築地により守られていた

左 壺の碑の隣に立つ芭蕉句碑        あやめ草 足に結ばん 草鞋の緒 
  多賀城築地跡 ここ多賀城は凡そ1キロの変形の正方形で高さ4m 幅2,4mの堅固な築地によって守られていた 古代中国から入ってきた版築技法による築地は大変手間暇のかかる技法である 4mの高さに作るのに8mの高さの土を必要とした 10cmの土を入れて半分の5cmになるまで細い棒で突き固めるのです 今この古代多賀城の築地だけを造ると約80億円かかるそうである
多賀城付属廃寺跡 
大宰府の観世音寺と多賀城廃寺は同じようなほぼ共通の伽藍配置と言う 特別史跡多賀城跡つけたり寺跡とは多賀城跡・多賀城廃寺跡を含むそれに関連する遺跡の総称で多賀城市内5か所に分布しその面積は107万平方mに及ぶ
 多賀城と同時期に創建された多賀城の付属寺院跡 東の塔と西の金堂が向かい合いその北側に講堂が置かれた伽藍配置は大宰府の付属寺院観世音寺と共通である

多賀城祉正面からの正殿 ここに大野東人はじめ藤原朝猟 大伴家持 紀の古佐美 田村麻呂等数々の陸奥守 按察使 鎮守将軍 征夷大将軍が登城した所だ
 
特別史跡多賀城祉附寺祉碑
  右が明治天皇御聖跡・左が後村上天皇後御座之處跡の碑 
前者は明治9年明治天皇行幸記念で20代内閣総理大臣高橋是清の揮毫 後者は昭和10年時の30代内閣総理大臣斉藤実の揮毫による 多賀城祉の中心である正殿跡の北側にある
 北畠顕家後村上天皇(義良親王)を奉じ陸奥守として南朝の拠点を此処多賀城に国府を置いた 顕家16歳後村上6歳であった 右は明治天皇の碑
 
壷の碑 其の4