政庁祉裏にある多賀城神社
 後村上天皇 北畠親房 顕家 伊達行朝 結城宗広等南朝の諸将を奉祀する  ここは陸奥南朝の国府(岩切城)でもあった 1333年(正慶2年)5月鎌倉幕府を滅ぼし建武の新政を樹立された後醍醐天皇は密かに関東・東北を拠点として新政府に謀反をひるがえした足利尊氏の不穏な動きを洞察され参議左中将北畠顕家を陸奥守に任じ1338年(嘉暦2年)後醍醐天皇第七皇子義良親王を奉じ陸奥・出羽鎮撫の為陸奥国府のある大向せしめられた➡
➡   この時親王6歳 顕家16歳であったので建武の中興の元勲大納言北畠親房を親王の子守役 顕家の補佐役としてともに下向せしめられた 爾来親王には1339年10月吉野行宮におかれ即位(九十七代後村上天皇)されるまでのわずか7年の間に陸奥太守として二度に渡り通われ3ヵ年の歳月を多賀城に於いて南朝の忠臣達とともに王政復古のために尽くされた・・・・・ 
陸奥国府多賀城への往復の際箱根に於いて大雪に難儀された時を思い出して詠まれ(神社由来書)

右上下 陸奥惣社宮
 醍醐天皇の勅命により日本全国の由緒正しい神社を選別し神名帳に記載し各地の国司が自ら直接祭りを行う事とした➡下

伏石 旧古道塩釜街道脇
1287年(弘安10年)の紀年がある 多賀城で2番目に古い供養碑 時宗の僧西阿弥陀仏が30余人の協力でこの碑を建てたと彫られてある 昔倒れていた碑を起こした所この地に疫病がはやり占った所碑を起こしたためである とのことで再び元に戻したので伏石と呼ばれる

左下  金子兜太の句碑  境内にある
    新秋の 陸奥一百社 鳥集う
 右  延喜式内社多賀神社 
素朴で鄙びているが立派な延喜式神名帳にその名を留める神社 旧古道塩釜街道沿いにある
➡ その数3132社 内188社を大社とし他を小社と分別した 然し国司1人が全部を祭りすることは困難の為各国府毎に多くの祭神を一か所に合祀勧請したのが惣社宮である 陸奥総社宮は陸奥国延喜式内社100座の総元締めでここに参詣すれば100座を全部参詣した事になる 入り口には式内社100座の名前が書かれている 国司は奥州一の宮の塩釜神社に詣でる前には必ずお参りしたボランティア案内人の話では「国司・按察使は海路千賀の浦に来て上陸しここで正装に着替えて多賀城にはいったのではないでしょうか 塩釜神社よりずっと古い」と話していた 確かにここを東に行けばすぐ当時は渚だった奥州一宮の塩釜神社である(神社栞)    古道塩釜街道沿いの陸奥惣社宮
後村上天皇制御
我が末の 世々に忘るな 足柄の 箱根の雪を わけし心を
  壷の碑 其の5