津久毛橋
   
陸奥の 勢は御方に 津久毛橋 渡して懸けん 泰衡が頸
                                    吾妻鏡  梶原平次景高

りはら田園鉄道金成沢辺駅と栗駒駅の凡そ中間に津久毛駅がある。その名の通り正に田園風景が一望なのです。その北部を県道186号線が低い丘陵の麓を通るがその傍らに津久毛橋城があり、その正面で農道が一直線に南下すると直ぐに津久毛橋がある。田圃の中を流れる鳥沢川にかかる橋だが勿論ここは歌枕の地ではないのです。頼朝の平泉攻撃の往時は勿論橋などはなく三泊川の氾濫原で江浦藻(つくも)なる葦が一面に茂る湿地帯であったようだ。その江浦藻を刈り集めて橋代わりにして渡河する時に梶原平次景高が頼朝に詠み献上し二品殿(頼朝)も大変に上機嫌だったという。この梶原一族は元々桓武平氏出身の流れなのであり、父平三景時は平清盛の父忠盛より尾張の国目代職と言う重職にあったと言う。1180年 雌伏20年 伊豆蛭が小島の頼朝挙兵したが石橋山合戦では敗走したのです。それを追尾したのが梶原景時と従従兄弟の大庭景親等であったのです。然し大庭景親の鋭い探索にもかかわらず、景時はそれを欺きその所在を知りながら彼を匿い真鶴から安房への脱出を助けるのである。それ以来頼朝と梶原一族の異常なほどの親密な関係がはじまる。上の歌は勿論だが他にも景時のが多くある様なのだ。
 わが君の 手向けの駒を 引き連れて いくすえ遠き しるしあらわせ 
 頼朝の使いとして住吉神社に奉幣 馬を献上したときに詠む
 我ひとり 今日の軍に 名取川 君もろともに 徒わたりせん
    
奥州征伐の名取川で 上句頼朝下句景時詠む
 
契りあらば 夜こそこうと いふべきに しらけて見ゆる ひる狐かな
 
狐狩に突然狐があらわれて 下句頼朝 上句景時詠む 
 
丸子川 ければぞ波は あがりける かかりあしくも 人や見るらん
 相模国丸子川(現酒匂川)の渡河の際景時の気性の荒い馬 が頼朝にうっかり水をはねたので景時を睨みつけた上句景時下句頼朝が詠む
 
秋風に 草木の露を 払わせて 君が超ゆれば 関守もなし
     奥州征伐白河の関にて 景季
などであるどうも梶原は頼朝に『よいしょ』過ぎるに聞こえるのは私だけなのだろうか。
  
特に宮仕えとして当たり前とは言え頼朝への余りの佞(おもね)が際立つような気がするのである。この景時一族は歴史的には余り評判がよくないのは皆さんご承知の通りである。更にそれに輪をかけるのが有名な景時の『義経讒言といわれる壇ノ浦の勝利報告』である。頼朝は義経が後白河天皇に接近する事への猜疑心と義経の余りの勝ちっぷりの良さとその人気ぶりへの景時の嫉妬心が勝利報告にもかかわらず義経の行動報告となったようである。元々景時と義経は馬が合わない、反りが合わない二人だったらしい。壇ノ浦の合戦を前にして二人は一触即発の大喧嘩をしている。
  
壇ノ浦の先陣争い。1185年(元歴2年)3月24日 午前6時
  景時「今日の先陣はこの景時めに」
  判官「義経がいないならともかく いるのだから」
  景時「それはよくない 義経殿は軍の大将なのだから」
  判官「思っても居ない 大将は鎌倉殿 景時殿と同じじゃ」
  景時「判官殿は大将の器になれぬ人じゃ・・・」
  判官「お主こそ日本一の大馬鹿者・・・」と太刀に手をかける
  景時「わしは鎌倉殿のほか 主人はいない」とこれも太刀に手をかける

と合戦直前にこんな調子なのである(平家物語)。そのうち嫡男源太景季 次男平次景高 三男影茂が父のもとに駆け寄り、判官方にも気配を察した佐藤忠信 伊勢義盛 武蔵坊弁慶等が駆け寄った。義経の性格にも組織人としては問題があったようだが、兎に角頼朝 景時 義経の組み合わせはこの源氏の兄弟にとっては不幸だったのは間違いない。所が頼朝没後すぐに景時は千葉常胤等御家人6人よる「景時排除の連判状」により鎌倉を追放されているのです。頼朝死後近臣結城朝光は幕府詰め所で「忠臣は二君に仕えず」と語ると景時はこれを謀反として源頼家に讒言した事によるのです。讒言者景時の所以である。こんな田舎の小橋にも多くの歴史上の人間のしがらみを背負っていて感慨深い橋なのである。
(参考 梶原景時 新人物往来社 千葉氏探訪 千葉日報社)平成16年5月5日