上
津久毛橋近くの喜泉院は
義経
と共に討ち死にした
重臣鈴木三郎氏重家の妻亀世御前
に因んだ寺院
右
文治5年(1189年)8月三迫川南岸に布陣した頼朝軍は津久毛橋城を攻撃後引き続き平泉を攻略した 鎌倉日記に
『21日兇徒平泉に入る 泰衡城を構い屯勢を二品玉造松山の道津久毛橋に至る 梶原平二景高に給わる詠一首・・・22日二品玉造を立ちたまひ平泉に赴き給ふ 泰衡かねて城を去り逃亡す』
(岩出山歴史見聞 岩出山町)とある
芭蕉と旅した
曽良の旅日記
には『 十四日(元禄二年五月 1689年)天気吉 一関ヲ立
。
岩ケ崎。真坂。岩ケ崎ヨリ金成へ行ク中程ニ つくも橋有リ。岩ヶ崎ヨリ壱リ半程。金成ヨリ八半道程。岩ヶ崎ヨリ行ケバ道ヨリ右ノ方なり。
』とある
。
この辺りを通り彼らは岩出山へ向かった。
右上中
正面の小山が津久毛橋城で案内板には1341年(興国2年)
北畠顕信
が南朝最後の拠点をこの城に置き 足利の将石塔義房と大合戦を演じた地と言う