名にし負ふ つつじが岡の 下わらび 共に折り知る 春の暮れかな            回国雑記 道興准后
東路や つつじが岡に 来て見れば 赤裳の裾に 色ぞかよへる           夫木和歌集 二条大后宮肥後
みちのくの つつじが岡の くまつづら つらしと君を けふぞ知りぬる          古今和歌六帖 藤原仲平
みちのくの 千賀の浦にて 見ましかば いかにつつじの をかしからまし      道綱母集 右大将道綱の母  
 道路より一段高くなっている 是が榴ヶ岡鞭舘のあった所でしょうか? 上に天神社がある 榴岡





 地図を見ると仙台駅の東部一帯は宮城野区であり、駅よりすぐ東が榴岡1丁目から5丁目まである。仙台〜石巻JR仙石線の一つ目が榴岡駅(地下にあるでもある。古くは躑躅が岡と書いたのです。は「テイ」と読み『@いっては止まり・いっては止まりして進まないA2〜3歩いっては止まるBとんとん足踏みするCつつじ科の総称』(新漢和大事典・学習研究社)とあり、又は『チョク』と読み『@ふむAあと・足あとB足踏みして前に進まない』(大字源・角川書店)とある。何故こんな難しい漢字が充てられたのだろう?考えられるのは榴ヶ岡の北西部にある『玉田横野』には往時馬の放牧地があり、そこに咲いていた『あせび』の花を食べた放れ駒が中毒を起こして歩けなくなったり倒れたした云うのです。丸で酒でも飲んで躑躅の様になったのです。よって此の辺りを躑躅が岡とも書かれたという。それにより『あせび』を『馬酔木』と書くようになったと云うのです。戦前この地は陸軍第二旅団司令部と歩兵第4連隊が置かれた軍都仙台の要地で、現罪の歴史民族資料館はその名残の軍令部の建物である。それ以前にも1189年文治5年8月平泉藤原泰衡がここに陣営を敷いたのである。奥州平泉征伐の頼朝を迎え撃つためにである。この地を当時鞭舘といっていた(くまつづらを馬鞭草とも書く)。然し福島北部宮城県境にある厚樫山の陣で国衡が大敗すると鞭舘の泰衡も総崩れとなって北へ逃れた地でもある。板東から西海まで20年も平家と戦い続けた百戦練磨の頼朝にとって平和な100年に慣れ親しんだ泰衡は敵ではなかったろう。古代この地はつつじの名所であった。その花で衣を摺りつつじ摺りとも称されていたというのだ。。戦争とは似つかぬ優雅な染物が都の人の評判だったに違いない。然し今つつじの花はない。あるのは4代藩主伊達綱村母三沢初子の冥福を祈るため京の都より枝垂れ桜 彼岸桜 松 楓等1000本を移植されて以来ここは桜の名所となってしまって現在に到るのである。なお三沢初子は綱村2歳の時に起きた有名な伊達騒動を題材とした歌舞伎『伽羅先代萩』の乳母正岡のモデルとされた人でこの岡のすぐ麓にその墓があるこの綱村が仙台東照宮跡の小田原天神社をここに移転し榴岡天神社とした。 現天満宮である。菅原道真を祀るので40以上の句碑 歌碑 筆碑等の文学碑がある。一見してここは岡には見えないほど近代ビルが立ち並んでいて昔の面影は全くないが、天神下の通りに立つとかってここに岡があった事がかすかにわかります。現在ここは榴岡公園として市民に親しまれている。(平成14年11月23日)(参考 文学史蹟辞典 東京堂 歴史民族資料館資料 榴岡公園案内書)