広大な榴岡公園の北西の端に立っている榴岡の碑  松尾芭蕉が奥の細道で『ここ玉田よこ野つつじが岡はあせび咲くころ也 ここに天神の御社など拝みて其の日は暮れぬ・・・』とある 又蜻蛉日記にも『・・・つらき心はみづの泡 消えは消えなむと 思へども かなしきことは 陸奥の つつじがおかの くまつづら くるほどをだに 待たではや ・・・・』と記されている 975年頃の作品だがもう既に都にも名勝榴岡の名は流布していた 彼女は藤原道綱の母で美女才女だが夫兼家の浮気に悩み多い人生だった  百人一首に有名な
嘆きつつ 一人寝る夜の 
  明くるまは いかに久しき 
      ものとかは知る
は実感がある
  榴岡と二十人町の分岐点に立っている辻標二十人町とは藩政時代に二十人衆と呼ばれた足軽鉄砲組が置かれた事に由来すると言う(歴史民族資料館) 左歌碑
  芭蕉翁50回忌 蓮二(支考)翁13回忌追善碑
あかかと 日はつれなくも
            秋の風

3夜の 
月見るそらに 
かへり花

その他境内には多くの句碑・歌碑があった



 榴岡 
其の2




  見上げれば藤原泰衡が陣を構え頼朝に備えた鞭楯というのに相応しい高台になっているのが分かる 
元禄8年藩主4代綱村生母三沢初子の冥福を祈るためここに釈迦堂を建て千本余の桜・松・楓植樹したのに始まるそれ以来桜の名所となった