この世の総てが定めなきもの 寄るべなきもの 所謂人生はサスペンドで、人の心の捕らえ難きを例えた浮島は 凡そ1300年前には既に心ある都人の、未だ見たことも無い憧れの歌枕だったのでしょう。源  順(911年〜983年)と生没不明の小野小町は凡そ830年前後 同じく山口女王(おほきみ)にいたっても家持との関係を考えれば730前後の出生ではないか。つまり平城京初期にはこの遥かな陸奥の地の歌枕が教養人に知られていたのには本当に驚きます。古代の日本人の教養と感性には驚くばかりです。殊に山口女王(おほきみ)の歌は浮島の主題歌みたいなものである。浮き 浮き 憂きと3回も『うき』を繰り返す中々歯切れと語呂のいい歌である。このリズムの良さはとても家持との恋に悩む人の歌とも思われない。真意の掴めぬ持 恋敵の多い家持は彼女にとっては地に足がつかない浮島の如き状況で格好の素材になったに違いない。大伴家持は66歳782年(延暦元年)6月17日陸奥按察使兼鎮守将軍となり多賀城に赴任した。当時なら相当な高齢であるにもかかわらずである。武を以ってなる名門大伴一門は藤原一族の台頭によりその凋落ぶりがこの事でも分かるのである。彼の歌に『春愁の三絶』と言われる3句がる。
            春の野に 霞たなびき うら悲し この夕暮れに 鶯なくも
             わが宿の いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕べかも
             うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば

名門 文武両道に長けた大伴氏が次第にその栄光を失っていく鬱陶しい雰囲気が読取れると共に、エリート家持の空しささも伝わってくるようである。彼の肩を落とした後姿『男の背中』ほど母性本能を掻き立てたものは無いだろう。大伴家持研究序説(桜風社)によると万葉集巻四(相聞歌)に家持の歌は64首そのうち女性に贈ったものが56首、逆に家持に贈られた歌も64首でその内女性からのものが60首もあるのです。家持をめぐる女性は坂上大嬢(おおおとめ 彼女が本命らしい) 笠女郎(いらつめ) 山口女王(おほきみ) 大神女郎 中臣女郎 娘子(おとめ 他 3人程) 妾 河内百枝娘子 巫部麻蘇娘子 童女(おとめ) 栗田女娘子 娘子 紀女郎 日置長枝娘子 安倍女郎 平群氏女郎等 記録以外の女性をも考えれば目に余る女性関係があったらしい。他に現地妻もいただろう。女郎は人妻 娘子 童女は未婚・処女の事なのです。
            葦辺より 満ち来る潮の いや増しに 思へか君が 忘れかねつる  山口女王
山口女王は大伴宿禰家持に贈れる歌として万葉集に6首収められているが家持は一首も贈っていないと言う。何ともつれない仕打ちではないでしょうか。浮島の喩えがピッタリの山口女王のこの歌の心境が理解できるのである。然し家持は本命の坂上大嬢には
               忘れ草 わが下紐に 着けたれど 醜(しこ)の醜草 言にしありけり
           
 (にくらしい忘れ草だ 貴女を忘れようと噂の草を肌身離さず持ってたけれどちっとも役にたたないよ)
の歌を残している。話はそれたがこの浮島は本当の海にあった島ではないのです。土で出来ている単なる小山なのである。海特有の岩で出来た島ではないのである。海中なら土なので海の浪ですぐに崩れ流されてしまった事でしょう。小山なのだが豊葦原の瑞穂の葦や稲の穂波の中にあると丸で波に浮かぶ島の様に見えたのだろう。それにしてもこんな何処にでもある小山さえ恋文の題材に変えてしまう古代の人々の感性と表現力は今のイタリヤ人やフランス人以上の物があったのです。何時の頃から現代の日本人のコミュニケイション下手(口下手)が始まったのだろうか?。恋にしろ戦にしろ先ず『言(こと)向けて和(やわ)す』事こそ古来日本人の本質だったのだが。今では余りにも周りの環境が変わりすぎてしまった。この嶋は海ではなく甍の波の中である。家持は浮島の近く多賀城で785年(延暦4年)8月28日に亡くなったと言う。丸で山口女王の怨縁に掴まったように。(平成15年5月15日)(参考 大伴家持研究序説 桜風社)
右上下  家持の歌碑と記念碑  多賀城市文化センター内  多賀城市中央2丁目
 この歌こそ次第に凋落する大伴家への拘りを感じるのである 『大伴家累代のお墓は目立つ様に立てるべきだ 人にはっきりわかる様に』と歌っている
 記念碑の形状は多賀城市の地形の3500万分の一大きさでできている 陸奥守兼按察使兼鎮守将軍として多賀城に赴任した家持を追慕して永遠に顕彰するために建立された
  大友家持薨後千二百年記念碑

                  浮島 其の2        大伴の 遠つ神祖の 奥津城は しるく標立て 人の知るべく 
           万葉集巻18 大伴家持歌