那須郡衙政庁跡 那須郡那珂川町小川にあり当初は政庁跡とされてiいたがその後の調査では正倉跡が有力視されている(説明版)
下左 笠石神社 
笠石とは碑文の上に笠の様に石が載ってるので其の名がついた 神社そのものは目だたぬものだがその中身は日本の宝が収まってるのです
 尚この碑のあるこんもりした森が韋提の古墳ではないかと宮司さんの談
下右 国宝那須国造碑覆堂と宮司の伊藤氏 懇切丁寧に碑文の説明を30分もしていただいた
下 国宝那須国造碑 
多賀城の壺の碑・高崎市の多胡の碑とともに日本三古碑の一つ 凡そ1300年前文武天皇時代の碑なのだ 現物は非常に硬い花崗岩に彫られているので摩耗が少なく最近彫られた様な鮮明さには驚く そしてその発見と保存と解釈が有名な大日本史の著者で水戸黄門徳川光圀公なのも不思議な縁である 宮司さんよるとこの碑は那須国造の役職(追大壱那須直)にあった韋提(いで)と云う人物が持統天皇より那須郡(評)長に任命されたが文武天皇4年に亡くなったのでその息子意斯麻呂が新羅の帰化人と協力してこの碑を建てたと云うのです 碑文の前半は墓碑で後半には彼の功績と人徳が彫られていると云のです 現物の碑は御神体の為撮影禁止なので右の画像は神社提供の写真である 宮司さんによるとこの碑は墓碑だそうです
 
 
那珂川町にある御霊神社 与一は屋島の合戦で扇の的を射る時に心から祈願した八幡大菩薩にお礼の為京都石清水八幡宮に参詣の帰り道伏見の即成院にて急死したがその時の供人角田四郎が遺命を受けてその分骨をこの地に斉した所という(説明板)
下 国指定史跡下侍塚古墳 碑文近くにある下侍塚古墳は上侍塚古墳と共に国指定史跡の古墳で 
 
那須の篠原 V
  韋提の墳墓ではないかと元禄5年やはり徳川光圀公が発掘調査した その結果5世紀前半の古墳で韋提よりも3世紀程早い時期のもので鏡・鎧片・鉄刀片・土師器壺・高坏等の出土品を絵図などに記録した上松板の箱に入れて埋戻し墳丘の崩壊防止に松の木を植えて埋め戻したという この発掘調査の処置方法当時としては完璧で日本考古学史上特筆されるものだという