延喜式下野国十一社の一つ健武山神社 
この神社日本書記に『・・・日本武尊白鳥云々・・・欲録其功名即武部』とあり祭神は日本武尊と金山彦命の二神である 金山彦命は続日本紀に『承知2年下野国武茂神に従五位を授け此の神採砂金の山に産す』 とある由緒ある神社 水戸徳川斉昭公も深く崇敬して社領17石を寄進している 聖武天皇の御世には大仏建立の際にはここの金が運ばれた 碑には古代産機の地とある 地元では健武さん・健茂さんと呼んで親しまれてる 
   山縣有朋別邸 
長州藩士 
元帥陸軍大将 従一位大勲位功一級公爵 内務大臣 総理大臣 元老 司法大臣 貴族院 日本軍閥の祖他多数 現東京ホテル椿山荘は明治11年山形が私財を投じてつばき山を購入し庭園・邸宅を作り椿山荘と命名したのに始まる(矢板市) 
    大山巌別邸 薩摩藩士
 元帥陸軍大将 従一位大勲位功一級公爵 陸軍大臣 内大臣 総参謀長 元老 県立那須拓陽高校内にある
 那須の篠原Ⅳ






➡尚兄健次郎は東京帝大物理学教授 東京帝大・京都帝大・九州帝大各総長・私立明治専門学校(現九州工業大学)総裁・武蔵高等学校(現武蔵大学)校長を歴任した  那須塩原市 
 国指定史蹟唐の御所横穴墓伝説 藤原秀郷により討取られた平将門の娘がここ和見の地の将良を頼り来て髪をおろして女蔵比丘尼となっていたが彼女は妊娠してたためこの横穴で男の出産したが世を憚り将良は唐土の帝王の妃が懺悔により遠くこの地流されてきたと言いふらしたので唐の御所と呼ばれるようになったという (那須郡那珂川町説明板)    矢板武旧宅(聚塵亭) 那須野が原開拓を始め国道4号線・東北本線・下野銀行創立等那須野が原の発展に尽くし明治の政財界の山縣・松方・勝・大鳥・渋沢等の重鎮との交渉の舞台の地であった には男子が無く渋沢の媒酌で東京帝国大学卒のを養子に迎えた 又そのにも男子がなく東京帝国大学卒の玄藩を養子にした 国家を始め那須のが原・矢板市に多大の貢献をした矢板家である(説明板) 左 大山巌夫妻墓地 
巌を挟んで右に妻捨松 左に先妻沢子も一緒であると云う 周囲は高さ2m程のブロック塀に囲まれ覗くことは出来ない  凡そ150m四方もあり御覧のようにヒバの原生林の参道の奥にある 沢子夫人は薩摩藩だが捨松は会津藩士家老山川重固の娘である 兄山川健次郎と同様12歳で女子官費留学第一号である ウイキペディアによると留学に当たり「一度てたと思って帰国を待(松)つ」思いから母が改名したという➡