山形市内にある千歳山阿古耶の松伝説については、萬松寺にある栞に詳細に記されていて読めば読むほど古代への夢と浪漫に引き込まれる。伝説上の人物あり、実在の人物あり と中々興味深い悲恋物語なである。千歳山(471m)は市の中心部から南東部にあり, 有耶無耶の関(笹谷峠)を越えて陸奥の国(宮城県)へ通じる笹谷街道がその麓を通る。その傍らに萬松寺がある。実はこの寺の創建は1280有余年前になるという大変由緒深く, そのせいか其の栞の表紙には 一条天皇、後村上天皇、明治天皇三帝勅願所 最上仏法初開道場 曹洞宗 名勝古刹 虚空蔵菩薩霊場 地蔵菩薩霊場 羽州山形七福神福禄寿神霊場等肩書きが沢山あって賑やかです。文武天皇の御世(697〜707年)あの大化の改新(645年)で中大兄皇子(天智天皇)と共に其の立役者であった中臣(藤原鎌足の曾孫(藤原鎌足ー藤原不比等ー藤原武智麻呂ー藤原豊充)に当たる藤原豊充は陸奥の牧主として山形(信夫の館とも云う)にいた(当時山形は未だ陸奥国で出羽ではない)。彼には阿古耶姫という容色艶麗で詩歌管絃に堪能な娘がいた。或る時緑の衣を着た光源氏(名取左衛門太郎)の様な壮夫が現れ管絃の友となり、その後も度々やって来ているうちに将来の結婚を約束する仲となった。所が暫くしてある夜彼が悄然として現れ『私は尋常な人間ではない。千歳山の嶺に立つ老松の精霊であるが命運尽き名取川の橋材に伐れようとしています。もう貴女にも逢えない』と言って姿を消した。恋ふる人は今はなく、悲嘆に暮れる彼女は松の霊を弔うために千歳山麓に庵を結び(萬松寺の始)終に黒衣の身となって霊を供養したと言う。彼女は707年(慶雲4年)2月16日に24歳で亡くなった。
        
 消えし世の 跡問ふ松の 末かけて 名のみは千々の 秋の夜の月    右大臣藤原豊成卿娘 阿古耶姫
彼女が出家する時老松の切り株の側に松を植えて『千歳々折る勿 切る勿 我が夫の宿樹なり』と唱えしよりこの山を千歳山と名付け、姫お手植えの松を阿古耶の松と呼ぶようになったのである。そのせいかこの山の姿はお椀を伏せたような穏やかな女性的山である。父(実方)の突然の死に驚いた娘中将姫は, 千里の道をものともせず東下りして萬松寺に来て出家して墓守となり阿古耶姫と父との霊を弔って生涯を終えたと言うのだが、これでは話も面白くないのである。千里の道を娘が当時来れる訳がないし尼になって父と阿古耶姫を弔って一生を終えた というのも何処にでもある話で平凡である。ここはやはり中将姫は清少納言説の方がずっと大人の話になるし興味をそそるしここ歌枕の地をより人間臭く身近にさせるのです。事実清少納言と中将実方とはそういう仲であったのであるから。清少納言はある時『あなたも一緒に陸奥に行くんでしょう?』とまわりから言われるまで、実方の陸奥行きを知らずにいた。それを聞いて驚いて詠んだのが 『とこもふち 淵も瀬ならぬ 涙河 袖の渡りは あらじとぞと思ふ』と。実方は改めて彼女へ次の歌を返した 『かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしもしらじな もゆる思ひをと。清少納言は勿論、夫 橘 則光との間に則長という子までもうけていたし、実方だって業平とともにあの光源氏のモデルと言われ女性遍歴の多い頭脳明晰 眉目秀麗で妻子ある貴公子である。都から遠く離れた出羽の国の千歳山は阿古耶の松の秘話のみならず清少納言と藤中将実方の不倫の陸奥恋物語も秘めらているのではないだろうか?と勝手に想像出来るのも歌枕の楽しいところである。
(参考 みちのく伝承 実方中将と清少納言の恋 彩流社)

名勝古跡 千歳山萬松寺
古道笹谷街道の傍らにある この真向かいに近代的県庁ビルがある 歴史の隔世を見る思いだ

萬松寺山門
 萬松寺のこの門は山形霞城開城の祖の斯波兼頼公が建立しその大手門にあったもので最上義光公が城彫を改築する際に旧城門に黒印60石を付加し当山に寄贈された緒ある山門 扁額の千歳山はかの有名な上杉鷹山の師匠細井平洲の直筆です

阿古耶の松 其の2