上 名勝はつかし川の碑
其の足元に恥川が流れて左の山裾が千歳山の麓
下 恥川 コンクリートでは興ざめな心地です |
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平清水久左ェ門氏の表札
仲氏の許可を得て撮影させて頂いた 元文2年(1737)山形藩主に萬松寺の由来を尋ねられたが寺院の消失や盗難で古い縁起喪失状態であったが古老らの伝承を総合して進上せよとの命でまとめたのが書上(右)である 其の末尾に久左エ門の名が記載されていた その久左衛門こそ平清水久左衛門なのである 代々当主は久左衛門を名乗る |
寺号は開基阿古屋姫より起り候由相伝候。其由縁は上古いづれの公卿に御座候哉、奥州信夫郡辺に謫居被成候中、姫君誕生之処、美貌の御うまれゆへ、御父の御卿も御称美の思召にて、阿古屋の玉の佳名を御取用ひ、阿古屋姫と御名づけのよし。
然処姫君も御年つもりて後、閑閨さびしく思召程、夜々一人の男子来りて懇にとぶらひ候に、終に夫婦の契約有之。年月被為送候処、一夜又此男来りて姫君へ申し候は、「是まではつヽみ候得共、元来我は松の精に候を、今時至て橋木に成御筈ゆへ、同床のかたらひも今宵ばかりと思ふ也。去ながらむつび候しるしには、縦伐て倒とも其時姫君御手かけられず候はヾ、動き申まじ」と語り候ゆへ、姫君も奇怪に思召事大形ならず候処、翌日果して約に違ふ事無
之、其松を伐り数人にて挽候得共更に動き不申候間、所之者不審に存うらかたなど尋候上にて、姫君を頼み挽候に、御手かヽり候へば大木不滞候て、高低の遠路を挽着候に、其道すがら松と姫君さヽやきの聞へ候に付、所之者猶も奇異なる事に覚候て、夫より其橋を「蜜語の橋」と名づけ、今に信夫郡辺に御座候由。其後姫君程なく卒去之処、御遺言に「わが骸は当国の名山に納め、墳上に松を植へしと被仰候ゆへ、千歳山迄送り唯今の阿古屋の地に葬埋仕候て、御遺言のごとく植候松を「阿古屋の松」と申し候旨。其時阿古屋姫御追福のため寺も建候歟、此由縁にて「千歳山万松寺」と号を申伝候。
久左衛門
ネット 実地に歩き郷土の文献に記す 蟻行記より参照 |
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上 清水山耕龍寺(平清水観音堂)
後ろの山が阿古耶姫伝説の千歳山 この山から流れるのが恥ずかし川 ここの表札にも平清水となっていた ご詠歌は
東山 流れは同じ 平清水
結ぶ心は涼しかるらん
恥川上流 |
平清水家の由来が彫られた石碑
平清水家の庭にあった
尚この庭には山形県指定天然記念物千年樹齢の柊(ひいらぎ)がある 福島県いわき市が北限とされるが黒金穆弥が下野国から持ってきて鬼門の地に植えたものと伝える |
国指定史跡 霞城の二の丸東大手門 山形市霞城町
敷地70万坪を誇る 延文元年(1356)羽州探題として入府した斯波兼頼(初代最上氏)の築城に始まる 最盛期の義光没後最上家は家督争いや家中の争いが絶えず徳川幕府により所領は没収・改易され続け2百数十年の間に13度も藩主が目まぐるしく変わり最近の日本国並だったと云う 鳥居忠政・保科正之・松平・奥平・堀田・水野家等何れも奥州の押さえとして徳川譜代の大名が入城した 当時余りしょっちゅう変わるため藩主自身が城を大事にせず修理しても次の藩主が得するだけで費用が掛かるだけ損だからと城は朽ち果て象徴の大手門はぼろぼろだったという
はずかし(恥)川 其の2 |