出羽百万石とも讃えられる英主最上義光公・嗣子家親公・嫡孫義俊公の最上三代の墓と殉死した四人の墓がある

光禅寺は元々七日町にあったがお家騒動で改易になった最上氏に代わり鳥居氏が入府した時ここ光禅寺の土地・建物をそのまま自信の菩提寺としたため追い出された形で鉄砲町移動した

 最上義光公が眠る光禪寺  山形市鉄砲町
門にある『丸に二つ引き』の家紋は足利尊氏で有名な足利家の家紋である 最上家の前進は宮城県玉造郡大崎の奥州管領斯波家でありその斯波氏の前進は足利氏だから『丸に二つ引き』なのである そしてその足利氏の前進は有名な武神源義家の三男である源義国である 義国の長男が新田氏を名乗り次男が足利氏を名乗るのである だから新田家の家紋は『丸に一つ引き』である 後に有名な新田義貞と足利尊氏は南朝方・北朝方に別れ同族が相争うが北朝方の」勝利に終わり足利室町幕府が成立する つまり最上氏は清和源氏の流れなのだ 

 旧寺町に立つ専称寺は義光の次女駒姫(お伊満)の菩提寺である 東国一の美女と言われ美しく生まれた故に幸せ薄い15年の生涯を終をえた悲劇の姫の墓が下右の写真である 余りの質素さには哀れさがひとしおである 秀吉の跡を継ぎ関白となっていた甥秀次に見初められ側室として京都に上ったのです 然し秀吉が待ち望んでいた跡取りの秀頼が生まれてから関白秀次との関係が悪化していた 秀吉は1595年7月15日秀次に切腹を命じたのです そのあおりで秀次の正室側室愛妾34名が8月2日京都三条河原で斬首されると言う悲劇が起きその中に上洛したばかりの駒姫もいたのです➡

 鳥居忠政の菩提寺長源寺 山形市七日町
 元々いわき平藩の時父元忠の菩提を弔う為に建てられたもので鳥居忠政が関ヶ原の戦いで徳川方につき其の功により平藩10万石を与えられたがお家騒動で最上氏が改易されると最上22万石として徳川譜代大名として戦後の奥羽佐竹氏・陸奥伊達氏の外様の監視役として送りこまれた
 この境内で戊辰戦争で最上藩家老職水野元宣が官軍により斬首されその墓碑もある

➡軍学者由井正雪は当時戦国時代が終り豊臣方大名の改易・断絶で失業して食い詰めた浪人が江戸市中に多数徘徊して不穏な状態にあった 正雪は浪人救済を掲げて倒幕のクーデターを謀議したのである 歌舞伎での見栄をきる場面は人気が有るが丸橋忠弥は性格的には粗忽だった様で借金取りに倒幕の計画を漏らしたり、未明に捕り方に自宅が包囲されたとき、➡
 
光明寺にある斯波兼頼公の墓 
南北朝時代の1356年(延文元年)奥州大崎から出羽国主兼羽州探題として山形に入部し初代最上氏となった人物である 最上義光は彼から11代目で57万石の大大名となった

最上山専称寺  山形市緑町 
江戸時代中期の木造建築としては東北最大を誇る 中に本堂大屋根の四隅の天井を支える夜鳴き力蔵像は名工左甚五郎作と伝える

この寺はわずか15歳で非業の死を遂げた駒姫の霊を弔うための菩提寺として建てられたもの
豊臣への恨みつらみは天下分け目の関が原では徳川についた最上氏の理由がこんなところにもあったかもしれない

➡ 丸で殺されるために上洛したという馬鹿げた時代だったのです
罪を斬る 弥陀の剣に かかる身の 
     なにか五つの 障りあるべき
私に人道に外れた五つの罪があるのでしょうか?わずか15歳の少女の辞世の句です

 丸橋忠弥居住跡 山形市相生町
驚いた事に相生町にある愛染堂跡は歌舞伎や講談でお馴染みのあの丸橋忠弥が住んでいたと言うのです 彼は御茶ノ水で道場を開く宝蔵院流槍術の名手 1651年(慶安4年)由井正雪の乱(慶安の乱)で由井正雪の片腕で幕府転覆の首謀者の一人である。 1651年(慶安4年)由井正雪の乱(慶安の乱)で由井正雪の片腕で幕府転覆の首謀者の一人である➡。
➡ 捕り方は槍の名手の忠弥とはまともに戦えないと判断して槍を持たせず誘き出すために『火事だ・火事だ』と叫んだと言う。忠弥は驚き何も持たずに飛び出したところをあっさり北町奉行所の同心疋地六右衛門に捕まり完成したばかりの鈴が森処刑場で第一号の処刑者となった。その後正雪も駿府の宿で取り方に包囲され自刃したと言う
 丸橋忠弥は四国の戦国大名長曾我部元親の子盛親の側室の子と言うのも不思議な縁である





はずかし川(恥川) 其の3