相想ふ 心をとはば 二ツ石の あふこも絶えん なかの契りは                   ? 
宮木もれ をのが羽黒の 山烏 頭の白く ならむ世までも                    羽黒山旧記
暗き世に 明らけくこそ 照らしさす 法の切り火の 絶ゆることなく               皇子
 
芭蕉が狩川から羽黒山手向に向った歴史の道
 現在は国道47号線狩川交差点から県道46号線(手向街道)で忽ち宿坊のある手向に行ける



私が宿泊した宿坊  鶴岡市羽黒町手向
羽黒町手向手向の名こそ偉大な神域出羽三山への祈りと畏敬の念の表れであり花を霊に手向けるところからが地名になったのです そこには宿坊が現在30軒ほど道の両側にあり多くの苗字が祝部を名乗る それは葬部に通じると言うのだ  つまり古代彼らは神道式の葬儀執行祭司だったのです 江戸時代には300軒程もあったと言う 肉・魚類の料理は一切無く質素そのものだ
修験道と云うと西の熊野三山と東の出羽三山が頭に浮かぶ。その出羽三山の中でも羽黒山程なじみの深いものは無いでしょう。月山(1984m)・湯殿山(1500m)から離れ出羽丘陵の端っこにある低山(417m)が羽黒修験の名で呼ばれ三山の中でも重きがるのあは何故だろうか? 開祖が役行者小角ではなく蜂子皇子(能除仙)という第32代天皇の皇子を持つ事が羽黒修験の最大の特徴ではないだろうか。日本の修験道山岳の開祖といえば殆どが役の行者小角となってるが、羽黒山を初めとする出羽三山だけはそれよりも更に古い蜂子皇子(能除仙)なのである。よって出羽三山は山岳信仰の中でも最古の歴史を持つとも言えるのです。略年表によると羽黒・月山の開山は593年(推古元年)で605年(推古13年)には湯殿山を開山したと言う。その後熊野や那智の行者の中には羽黒山に止まり羽黒山の興隆や再興に努力して中興の祖と仰がれる者も出たと言うのです。役の行者小角は能除仙の没後50年して月山に登ろうとしたが修行未熟につき認められず荒沢にくだり常火堂の切火を用いて湯殿行を成就なしとげて始めて月山登山が叶い能除仙から柴燈護摩法を授けられた伝説が室町時代に起きたと言うのです。中々羽黒山の開祖については不明な点が多いようでそれだけ歴史も古く中央からも遠く離れた蝦夷の山中だから仕方がない事なのでしょう。この様に出羽三山を開き羽黒派修験道の開祖となったのは能除仙とも蜂子皇子とも言われ又同一人物であるとも云われ中々わかりにくい様なのです。神道集では羽黒山開山の初見は崇峻天皇の第三皇子能除大師とあるのです。天皇の皇子にもかかわらず何故流浪され蝦夷の出羽山中逃れたのであろうか?能除仙は日本最初のテロリストである蘇我馬子によって暗殺(592年10月4日)された崇峻天皇の第三皇子で、従兄弟である聖徳太子が蘇我氏の暗殺が彼の身に及ぶのを恐れたため密かに宮中から脱出させたとの伝説がある。所が皇室関係の諸系図には第三皇子がいた事は記されておらず蜂子皇子と錦代(にしきで)皇女の一男一女だけなのである。江戸時代に入り羽黒山別当の宥俊・天宥が能除は崇俊天皇の第三子ではなく皇子であるとして朝廷に記述・記録の資料を求めたが叶はず、200年後に羽黒山別当覚諄(かくじゅん)が能除は崇俊天奥の長男で蜂子皇子であると主張したが朝廷は認めず替わりに朝廷は能除に対し照見大菩薩のおくり名を授けたのです。それ以後羽黒山は已む無く開山は蜂子皇子であると称するようになり明治政府も蜂子皇子が羽黒山の開山者としたと言うのです。所が不思議なことに羽黒山文書には羽黒山本堂(本社)は蘇我馬子の創建とあり以後代々羽黒山別当は蘇我の子孫が継承する事になってるというのです。暗殺者蘇我馬子が殺した天皇の子蜂子皇子の為に本堂を創建したいうのです

何とも不思議な伝承なのです。その一方皆さんご存知の容貌怪奇の蜂子皇子は顔が醜く眦も長く髪中まではいり、口は大きく耳の根元までさけ鼻は一寸も下にたれ下がり、顔の長さは一尺もあり頬の肉は盛り上がり歯が抜けた老人の口元で、目は三白眼でパセドー氏病患者のように咽喉がふくれあがり、いかにも苦難の人生を生きてき様な顔つきが生まれながらにしてあったと言う。余りにも怪奇なため山に捨てられたと言うのです。然し仙人に拾われて仙術を身につけついに羽黒山に辿りつき開山した言う伝説もあるのです。どの木像・絵画の容貌も金剛像・閻魔大王・姥神・天狗・等色々言われるが一番似てるのが湯殿山に数多くある即身仏になった行者の形相に一番近いような気がするのです。これはあながち考えられない事ではないのです。最近でも19世紀実在のイギリスの青年ジョセフ・メリックの半生を描いた1980年アメリカ映画『エレファントマン』がある。奇形で醜悪な形相を持つ青年で当初白痴だと思われていたが実は純真無垢で聖書を熱心に読み芸術を愛する美しい心の持ち主である事が明らかになるストーリーなのです。彼は1862年5歳の頃から身体に変化の兆しが現れ10歳になると目に見える形で変化してその特異な姿から周囲から敬遠され友人・両親からも見捨てられたため全国を巡るサーカスの一員として見世物小屋で世間の晒し者になっていたのです。20才中頃に出会った一人の外科医師トリーブスが彼に興味を持ちロンドン王室病院に入院させのである。蜂子皇子だって顔に似合わず衆乗救済のやさしい心の持ち主だったに違いないのです。ここ羽黒山の開山については1400年も前の事であり難しいこ理屈もあるのでしょが6世紀末にだってのエレファントマンが現れても不思議ではないし、崇俊天皇の二人の皇子・皇女の記述も殆ど無く、又第三皇子の記述もないことは案外そんな事の表れかも知れないのです。修験道は山を道場として苦行する宗教である。苦行によって己や他人の救済と罪の購いを願う原始的信仰なのです。従ってその究極は生命をも断つ世に言う入定や火定・捨身という自殺的行為とも紙一重なのです。そしてこの苦行により罪と穢れをはらい浄化される事により山に存在すると言う神々に接触・交流が出来、その呪力を頂く事により病・災いを取り除き予言・宣託をする能力を獲得できたと言う。蜂子皇子はそんな皇子ではなかったか。(平成19年10月3日)
 (日本の聖域出羽三山と修験 佼成出版社 HPウイキペディア百科事典 出羽三山信仰の歴史地理学的研究 竃シ著出版 修験道の歴史と旅 角川書店 山岳霊場巡礼 新潮新書 日本の神々 白水社 )

         羽黒山