歌学書袖中抄(しょうちゅうしょう)の作者で都の顕昭(1130年?〜1209年?)がどんな事情でこの出羽の、然も山又山の板敷山(629.6m)を知り得たのでしょうか?そして本当に其の当時から板敷山と地元の人々(蝦夷?)は呼んでいたのでしょうか?歌枕を歩いていていつも想像力を掻き立てるてくれる楽しい疑問符なのです。彼は歌学書の中で陸奥青森の歌枕『壷の碑」』についても書いてるのです。『碑とは陸奥の奥に壷の碑有。日本の東のはてと云り。但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本の中央のよし書付たれば石文と云と云り。信家の侍従の申しは、石の面ながさ四五丈計なるに文をゑり付たり。其所をつぼと云也。
私云、みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云ば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。』とあり次の歌を詠んでるのです
おもひこそ 千嶋のおくを 隔てねど
えぞかよはさぬ 壷のいしぶみ
中々陸奥には詳しいのだが然し壷の碑とは格が違い何の変哲もないこの山を詠む理由が見出せないのです。恐らく日本中の大部分の方も何処に有る山なのかさえ知らないでしょう。山形 最上川とくれば芭蕉ですが彼は奥の細道の中で『・・・・最上川はみちのくより出でて、山形を水上とす。ごてん、はやぶさなど云ふおそろしき難所有り。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す・・・・』と書いている。この『左右山覆い、茂みの中船を下す・・』は当時決して彼特有のオーバーな表現ではないのです。今でも文章の通りです。地図で板敷山を見ると確かに北東に最上川が流れてるが南西を見ると何と皆さんご存知の羽黒山があり立谷沢川流れています。つまり板敷山はその嶺により羽黒山と最上川を分かつ山なのです。でもよくよく考えてみると我々は現在の先入観で当時を想像してしまう弱点を持っているのです。古来山形県は最上川舟運と北前船・西回廻船により大阪との繋がり強かったのです。然し維新後は東京との繋がりを進める新政府は陸路の開拓を最優先したのです。だから明治11年三島通庸(酒田県令・山形県令・福島県令・栃木県令等を歴任し田中角栄の列島改造論の明治版の如く東北の道路を多数開通させた薩摩藩の人物)は陸奥の道路開拓に邁進したのです。彼による現国道47号線が開札するまでは実は道は無く、 |
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あっても最上川の増水時や清川ダシと言われる川下からの濃霧のあるときには通れない獣道程度であったので一般的には6km南を通る板敷越えの山道通らなければならなかったのです。その間15kmは極めて難儀で急峻な道で敷いていた板を立てにした様な険阻な道でそこから板敷山となったと言うのです。そうしますと芭蕉がここ戸沢村を古口から清川まで船で下った理由が分かるのです。五月雨を集めた最上川は増水の為好むと好まざるとにかかわらず『船下り』をしなければならなかったのです。それしか酒田へ出る方法はなく痔病もちの彼にはこの板敷越えは無理だったのです。若し彼が板敷き越えをしていたら最上川と板敷山の知名度は逆転していた事でしょう。
五月雨を あつめて早し 最上川
の代わりにどんな一句を残したのでしょうか?想像ガ楽しい歌枕の旅です。考えてみるに出羽の交通路として延喜式(905年・延喜5年に編纂開始された古代律令・法典の施行細則)にある駅家(うまや)制度には『最上(山形市)・村山(東根市郡山)・野後(大石田町駒籠)・避翼(船方町長者原)・佐芸(鮭川村真木)・飽海(遊佐町大楯)』があるがこの中で馬だけでなく船を置いてる駅家が水駅と呼ばれます。日本ではここ出羽国にしかない水駅があったのです。野後に5隻・避翼に6隻・佐芸に5隻とある。つまり今の新庄から鮭川村迄は戸沢村には道が無かったと言っても過言ではなかったのです。それは大げさに言えば明治11年まで続いたのです。山形県に於ける最上川水運の重要性がここにあるのです。所で板敷山のある戸沢村は村の中に山があるのではなく山の中に村があるのです。驚く無かれ農地6% 河川・宅地・雑種地10%で残り84%が山林原野の国営地なのです。 所がこんな小さな辺鄙な村に歌枕が4つ(最上川・板敷山・白糸の滝・綾の瀬)もあるのです。又仙人堂や義経伝説、幕末の志士清川清八出身地、そして芭蕉の足跡等々贅沢この上ないのです。更に山中の角川(つのかわ)村は何と今や当たり前の国民皆保険である国民健康保険発祥の地であるのです〔昭和13年(1938)8月国民健康保険法の施行に基づく国民健康保険組合の設立国認可第1号〕。超近代保険制度と道無き山村との取り合わせが何とも不思議とは思いませんか?
(平成19年3月31日)(参考 おくのほそ道 講談社学術文庫 大日本地名辞書
富山房 大日本地名辞典 角川書店 郷土史辞典山形県 昌平社)
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