戸沢藩船番所跡
ここから下流草薙温泉河畔まで約一時間の最上川船下りは世界三大舟歌の一つ最上川舟歌を楽しめます |
清川の船着場 東田川郡庄内町清川
ここまでが最上渓谷でありここから下流は庄内平野である ここは往古律令時代は最上川水駅(関川の湊)として栄え又庄内藩の関所跡でもありその名残の井戸も残っている 元禄2年(1689)6月3日本合海よりこの地に上陸した芭蕉曽良は狩川から羽黒山に向かいました |
清河八郎座像 清河神社境内
彼の不幸は孤独な東北人として西国の志士達のように大藩の庇護や同藩の仲間を持つという事に恵まれなかった事と司馬遼太郎氏は書いている |
芭蕉上陸140年後にここ清川村で生まれたのが清河八郎だ 旧姓斉藤八郎といった 『尊王攘夷の魁となるが本分なり』と維新の志士の思想行動は分かりにくいが彼は武力外交と野蛮な東洋人蔑視の強行外交のアメリカへの反発と なし崩し的に開港・条約締結した幕府の腰抜け外交から典型的尊王攘夷倒幕の信念を貫いた 往時江戸は憂国の浪士が町中に溢れ不穏な状況にあった 幕府は朝廷からの攘夷決行を迫られた対策に浪士組を結成し京都へ厄介払いせようとした その結成中心人物が清河八郎であった 近藤勇・土方歳三等の浪士組234名が小石川伝通院から京都に向ったのです 当時京にいた将軍家茂擁護の目的だが八郎には全くその気は無く目的は倒幕だったのです 京に着くなり『我々は幕府の募集に応じたが本分は尊王攘夷にある 幕府には何の関わりもない 天皇の為に立ち上がるのだ』と 天皇の軍隊となった浪士組みは後の新撰組と袂を分かつのです 後は皆さん御存知の新撰組が幕末を賑わすのです 清川八郎は1864年34歳の時会津藩士浪士組取締出役で幕府講武所剣術方の佐々木只三郎ほか六名によって暗殺された 維新の魁の志士も薩長中心の新政府からこの片田舎の八郎は認められなかった 死後45年後になってやっと正四位の地位が贈られたのです その時(昭和8年)現在の清河神社が建立されたのです
魁て またさきがけて 死出の山 迷いはせまじ 皇の道
砕けても 又砕けても 寄る波は 岩かどをしも 打ちくだくらむ
左下 清川歓喜寺にある清川八郎の墓 贈従四位と彫られている 墓標は山岡鉄舟の自筆である 東田川郡庄内町清川
蜩の 二十五年も むかしかな 正岡子規句碑 |
最上川
其の15
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