上下  境界石と六面憧   西置賜郡白鷹町荒砥三番坂
右の境界石には『境界は次の通り、荒砥三番坂下鮎貝阿弥陀壇迄五百八十七間半 右の内 三百八十間荒砥分 二百七間半 鮎貝分 但以糸尺六尺五寸定之』と彫られている
 六面憧は地蔵菩薩を現す梵字が刻まれている

上下 舟運の恩恵の大きさの裏には水量豊富な最上川は又洪水と氾濫の川でもあったのでしょう 洪水によって村と村の境界が不明になるのを防ぐため建てられたのが境界石である 嘉永2年(1849)建立された 

最上川の三難所と言えば中流にある碁点・三瀬・隼だが、勿論上流に来ればその急流の落差は尚更だ ここ白鷹町の北にあった黒滝は其の代表例で高さ3mの落差の瀧であった➡

つぶて石
黒滝橋最上川の中に立つつぶて石 『つぶて石』には、言い伝えが残されています。その昔、吉野山の戦いで敗れた弁慶が、ある百姓の家に滞在したお礼として、背負えるだけの稲をあげることにしたのですが、その様子を見ていた朝比奈三郎義秀という侍が弁慶の邪魔をしようと投げつけた大きな石がこの『つぶて石』➡
 最上川
 其の4





 
荒砥と鮎貝の境は最上川ではなく畑の中にあったのでの度々の洪水で境界線が不明になるのを防ぐために嘉永2年(1849)に建てられた 荒砥橋の袂にある
   ➡ この難所を小鵜飼舟の円滑な航行をさせるため1694年(元禄7年)京都の豪商西村久佐衛門が1年半の歳月を1万7千両を費やして段差を開削したのです それから300年を記念して建てられたのがこの記念碑なのです
開削された瀧のあった所から上流黒瀧橋を望む 滝の痕跡は微塵もない   西置賜郡白鷹町
➡ だと言われています 因みに朝比奈三郎は鎌倉幕府の侍別当で木曽義仲を討った後彼の美貌の豪腕巴御前を則室にした和田義盛の三男が大力無双の朝比奈三郎義秀と言う伝説がる


黒滝神社    西置賜郡白鷹町下菖蒲
最上川の難所黒滝の舟運交通の守護の為に建立された この付近には船着場の陣屋跡があったとい