最上川 瀬々の岩波 せきとめよ 寄らでぞとほる 白糸の滝               義経記  義経北の方
最上川 岩越す浪に 月さへて 夜おもしろき 白糸の滝                  義経記  義経北の方
最上川 おちそふ滝の 白糸は 山のまゆより くるにぞありける              重之集  源 重之
      此の最上川は いみじき川なり 世に似ず面白きものなれば 人過ぎ難し
最上川 滝の白糸 来る人の 心によらぬは あらじとぞ思ふ                  重之集 源 重之
ひきまわす かちばゝ弓に あらねども たか矢で猿を 射てみつる哉          義経記 義経北の方
心無き 詠よりてや 旅人の むすふもおしき 白糸の滝                      詠み人知らず

右 明治天皇休息の地碑 左 正岡子規句碑


白糸の滝
左上  明治天皇休息の碑と
子規の句碑

 混雑してる白糸の滝ドライブインの隣に人っ子一人こない所に明治天皇御休息の碑正岡子規の句碑がある(ここからの滝が姿は抜群) 
朝霧や 四十八瀧 下り舟 
彼ははて知らずの記に『小舟駛(は)する事箭の如く一瞬一景備(つぶさ)に其変態を極む』と書いてるが芭蕉の『水みなぎって舟あやうし』に似ていて面白い


左下 白糸の滝
落差120m 『白糸の滝は青葉のひまに落ちて仙人堂にのぞみて立つ』と芭蕉は奥の細道で書いてるが仙人堂とは数キロも離れてるので全く見れません 彼の表現はいつも記述半分と思っていたほうがよいようだ 
義経記には『・・・かくて御舟を上する程に、せんぢょう(絶頂)より落ち滾(たぎ)る瀧あり。北の方『是をば何の瀧と云ふぞ』と問ひ給へば『白糸の瀧』と申しければ、北の方かくぞつヾけ給ふ・・・』とある


義経記には義経と静の別れを

ありのすさみの  憎きだに
ありきのあとは  恋しきに
あかで離れて   面影を
いつの世にかは 忘るべき
親の別れ     子の別れ
すぐれてげに   悲しきは
夫婦の別れなりけり

    と書いている
『・・・・左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲を積みたるをや、いな船といふならし。白糸の瀧は青葉の隙々に落ちて、仙人堂岸に臨みて立つ。水みなぎって舟あやうし。』
             
 五月雨を あつめて早し 最上川
と芭蕉の奥の細道に載っている。『水みなぎって舟あやうし』がいかにも梅雨時の最上川渓谷の水量と水勢にぴったりである。この絶景の最上峡は最上郡戸沢村古口から東田川郡庄内町清川間の16kmです。又ここには悲劇の武将義経主従の伝説の地でもあるのです。義経記には『兄頼朝に疎まれた義経は奥州平泉藤原秀衡を頼り、山伏姿に身を変えた一行十六名と北の方
(奥方)は北陸道を北へ北へと急いだ。途中加賀の国愛発(あらち)の関をやっとの思い通り抜け、如意の渡しでは弁慶に打たれ、念珠が関では二つの笈背負わされながら人目を忍び一路越後路から出羽庄内に入った。三瀬の薬師堂に雨の為2〜3日逗留し、田川郡領主田川太郎実房宅で祈祷を行い、大泉の荘、大宝寺(鶴岡)を通り羽黒の御山をよそに拝み、清川に着きここから船上の人となって最上川を遡った。途中名所白糸の滝を左手に眺めて、上二つを詠じ鎧の明神・冑の明神を伏し拝みたかやりの瀬(高屋駅付近の難所)にかかると西岸山上に猿の声が聞こえたので、また北の方は
  引きまわす かちはは弓に あらねども たかやり猿を 射てみつるかな
と興じ、たけくらべの松を見、八向の明神を拝し、やがて船を合海の津に繋いだ』と記されている。所でこの北の方とは一体誰なのでしょうか?京にいた当時義経は24人の女性と情を通じたと言うが其の中でも絶世の美女白拍子静御前は次の歌で余りにも有名だ。義経記巻第五 判官吉野山に入り給ふ事 の中には

『・・・判官鬢の鏡を取り出して「是こそ朝夕顔を写しつれ。見ん度に義経を見ると思ひて見給へ」とて賜ひにけり。今亡き人の様に、胸に当ててぞ焦がれける。涙の隙よりかくぞ詠じける。』
見るとても 嬉しくもなし 増鏡 恋しき人の 影を留めねば
と詠みたれば、判官枕をとりだして、「身を離さで是を見給へ」とて、かくなん』
急げども 行きもやられず 草枕 静に馴れし 心慣(ならい)
『・・・判官思ひ切り給ふ時は、静思ひ切らず、静思ひ切る時は、判官思ひ切り給はす、たがひに行きもやらず、帰りては行き、行きては帰り給ひけり。嶺に登り、谷に降り、弓の影の見ゆるまでは、静はるばると見送りけり。互に姿見えぬ程に隠れたれば山彦の響く程にぞ喚きける』
互に姿見えぬ程に隠れたれば山彦の響く程にぞ喚きけるとあり後年多くの人々の泪を誘い袖を絞らせる名場面である。又捕らえられ意に反して頼朝の面前で舞った時にも人目も憚らず堂々として義経を偲んで詠んだ
しずやしず 賎のおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな
吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにしに人の 跡ぞ恋しき
は殊の外有名で頼朝を激怒させたと言う。
一方静御前の潔さとは裏腹に頼朝の追っ手から逃れる必死の北陸路にもかかわらず義経は何時・何処で足手惑いになる身重の奥さんと落ち合ったのかはっきりしない。しかも最上川本合海を上陸してから国道47号線の亀割峠の瀬見温泉で出産までしているから臨月間近の逃避行である。この方が静御前より1年前に頼朝の口利きで正室となった郷御前と呼ばれる武蔵国河越重頼の娘で平泉で義経とともに持仏堂で4歳の娘と共に亡くなってる女性なのです。静に比べて余りにも陰が薄いのは何故なのだろうか?せめても最上川の白糸の滝を見たら郷御前を思い出そうではありませんか。吉野山の静御前の様に。紅顔の美少年が演ずる映画やドラマと違い実際の義経はチビで出っ歯の不男だったと言うが、やはり男は顔・形ではないのですね。芭蕉は本合海から乗船して清川で下船してるが義経一行は清川で乗船して本合海で下船してる事です。真に興味深い事です。つまりこの間には殆ど道が無かったと云った方がよいのです。板敷山でも書きましたが明治11年三島通庸が国道47号線を開札するまでは道がなかった証拠です。清川・本合海は延喜式の駅家に言う水駅だったのでしょう。所で義経記に『判官、「寄道は二日なるが、湊にかゝりては、宮城野原・榴ヶ岡・千賀の塩竈など申して、三日に廻る道にて候に、亀割山を越えて、へむらの里・姉歯の松へ出ては、直ぐに候。何れかを御覧じて通らせ給ふべき」と仰せられければ「名所々々を見たけれども、一日も近く候なれば、亀割山とやらんにかゝりてこそ行かめ」とて、亀割山へぞかゝり給ひける』とあり必死の逃亡者にも拘わらず『歌枕見物でもしてみるか』と口に出すのが面白い。

(平成19年4月26日)(参考 奥の細道 講談社 新庄市史 義経記 平凡社)。
        白糸の滝