日和山にある日枝神社 酒田市日吉町 日和山公園隣  正面の随身門 天明7年本間光丘が寄贈したものが明治27年12月22日酒田大地震で全壊した 現在の門は材質を吟味し工匠の技術の粋を集め本間光輝が8年の歳月をかけ明治38年建立した 楼門二層造総欅木材で威厳と優美の調和が特徴とされる 山門に掲げられている山額『至誠道神』はあの明治の軍神東郷平八郎元帥の親筆である  又公園内海向寺には忠海上人と円明海上人の即身仏がある

正面玄関を入ると赤と金色を基調とした内装が当時の豪華さを今に伝えいる
 左 酒田舞娘の相馬楼
堅物鶴岡の代表は致道館だが自由貿易都市酒田の象徴は舞妓茶屋・雛蔵肥書廊料亭相馬楼でしょう 塀の朱色を始め内装も朱色・緋色のシンボルカラーは如何にも金に糸目をつけない豪商たちの豪遊の跡を偲ばせます 酒田は豪商が創った文化の町である
  正面玄関を入ると、雛飾りを連想する丸い燭台と漆塗りの床、松竹梅と扇・鼓をデザインした金箔のレリーフの豪華さと重厚さに陸奥には無い雰囲気を醸し出す 酒田舞妓が出迎えてくれる   江戸時代から伝わる享保雛をはじめ次郎左右衛門雛等由緒ある豪華な雛が保存されている 他に竹久夢二資料館も併設されている 内部の豪華な調度品や設(しつら)えは撮影禁止である
       
 
鳥海山を背にして出羽国府城輪柵東門 総面積52万平方㎞と云う広大な遺跡  平安初期から約400年間の出羽の国府跡とされている城輪国府政庁 1931年に一辺25cmの角材がびっしと720m四方で発見された 翌年には早くも国指定史跡に登録された 出羽国フロンティアの象徴でしょう➡

国指定有形登録文化財料亭相馬楼  酒田市日吉町

江戸中期享保年間流行した豪華で重々しい様子と能面の様な静かで神秘的表情がかみ合わさって気品のある姿が特徴の古雛
 大和朝廷は越国に647年(大化3年)淳足柵・648年(大化4年)岩船柵・658年(斉明天皇11年)都岐紗羅柵(鼠ヶ関?)を設置して着々と領土拡張進めた 683年(天武天皇11年)越の蝦夷伊高岐那が俘囚の民70人を引きつれて越の外に郡の設置を求めて初めて許可されたのです 出羽郡の前身である 鶴岡市南部田川を中心とす八沢川流域の地だろうといわれている 大山柵はその郡衛・征狄所跡ではないかとも云われるが不明 その後708年(和銅元年)正式に出羽郡が設置され赤川の東の東田川郡に移動したようだ そして712年(和銅5年)置玉郡・最上郡を陸奥から分離して始めて出羽国が成立した 最初の国府・国衙は現在の東田川郡藤島町平形辺といわれる ここには式内社大物忌・小物忌・遠駕・伊豆左売・伊底波・月山の各神社を」祀る六所神社があり 又古郡・国分の地名や越後・越前・上野・尾張・藤岡等強制移住させられた柵戸の出身地の地名の名残が多く残されている云う
国指定史跡 城輪の柵跡 酒田市城輪
733年(天平5年)出羽開拓は秋田まで進み国府・征狄所は秋田高清水に移動したが余りにも北に寄りすぎ・厳しい気候条件や伸び切った前線に補給もままなら能代川沿いの蝦夷の反抗・反乱(元慶の乱)等もあり国府としての秋田城は退却して775年酒田の地井口(酒田市河口辺り?)に移動したが850年(吉祥3年)の大地震で水没したので887年(任和3年)本楯の城輪出羽国府の地としたのです 近くには国分寺跡とおもわれる国指定史跡堂の前遺跡等があり他にも多数の遺跡の出土がありほぼ出羽国府とされている
袖の浦 其の9