飯盛り女奉加名石碑 敷石供養塔
温泉発展の礎となられた諸女の御霊を永く後世に伝える
農村が飢饉の時には上山温泉町の人口は逆に増えお上公認の飯盛り女・酌取り女は100人を数えたと言う 右の観音堂には彼女等が奉納した悲しい敷石が敷かれている
 毎年4月湯女供養祭が行われる
 
   20代の頃の永井ふさ子 斉藤茂吉記念館
上山市北町弁天
  ここ瀧の山の麓にあるのがご存知斉藤茂吉記念館である 近代短歌史上重要な位置を占める茂吉はこの近くの上山金瓶村で明治15年5月15日父守谷熊次郎と母いくの三男として生まれた純朴な農家の子供であった 当時浅草で同じ村の出身の斉藤紀一精神科医は跡取りがいなくて優秀な後継者を捜していた 明治29年たまたまこの村の宝泉寺の住職佐原窿応和尚の紹介で茂吉が養子となり医師になるため上京したのである 彼は優秀だったのでしょう 開成中学から第一高等学校へと進学していく中で幸田露伴や正岡子規の影響を受けたと言う 更に東京大学医学部出て後に青山脳病院院長となる 彼は32歳の時13歳と年下紀一の長女輝子と結婚するが東京育ちの彼女は派手好みで彼とは性格の不一致があったようで輝子の不倫問題もあり別居生活もあったようだがそれでも二男二女をもうけている その二男が有名な斉藤茂太氏と北壮夫(宗吉)氏である そんな中で昭和9年彼が50歳の頃彼の深い悲しみから豊かでみずみずしい歌風に変えたともいわれるアララギ派会員であった永井ふさ子(24歳)との晩年の秘められた恋愛が有ったと言うのである それが左の画像で誰が見ても彫りの深い美人である だからデスマスクの茂吉お爺さん頑張って➡   
明治18年竣工の楢下宿にあるめがね橋(下)と新橋(次頁)
 ともに手づくり郷土所賞が張られてる 明治初期県令三島通庸の肝いりで造られた西洋式の石橋 橋脚がないので当時は崩れるかもしれないとの事で渡る人はいなかったと言う しこも建築費1000円を回収するのに人・人力車・荷馬車等から橋銭を徴収した珍しい橋   上山市楢下乗馬場 
瀧の山
 其の4



 
 
沢庵漬け発祥の地 春雨庵
上山には1629年(嘉永6年)京都大徳寺153世でご存知沢庵和尚(禅師)が3年間流されていた所である  京都大徳寺・妙心寺の住持は従来天皇の詔によって決まっていたが天皇の権威を削ぐため幕府の許可制にして命令に従わないものは紫衣の着用を禁止した それに反抗したのが沢庵で所謂紫衣事件で上山に流されたのです
   ➡昭和28年73才で亡くなるまで17冊 17,907首もの歌を詠めたのも永井さんのお陰かもしれない  (斉藤茂吉記念館展示資料より)
左 斉藤茂吉デスマスク
  斉藤茂吉記念館
精神科医とともにアララギ派歌人堅物茂吉おじさんはともかくとしてふさ子さんは一途に茂吉を愛した 師弟関係から男女の関係になり当初茂吉は150通以上の書簡をふさ子に送る 然も必ず読後焼却を要求した
四国なる 乙女恋しも ぬばたまの
      夢にもわれに 笑みかたまけて
恋しさの はげしき夜半は 天雲を 
      飛びてわたりて 口吸わましを
白玉の にほう乙女を 天の原 
        幾重の奥に おくぞ悲しき

然しふさ子は焼かずに保存していた 絶対秘密の下での苦しき逢瀬にも茂吉には妻と別れてふさ子一緒なる気はなかった 誇り高い精神至上主義のアララギ派は他の歌壇と一線を画し同人同士の恋愛はご法度と青山病院院長の肩書を一人の女のために反故に出来なかったからである 期待するふさ子に茂吉は答える気はなかった 叶わぬ恋にふさ子は故郷四国松山に帰り
親の勧めで縁談に合意したがお祝に来た茂吉を忘れられず自ら結納を破棄してしまう その後戦争の激化で茂吉は上山に疎開しふさ子も伊東に疎開し二人の縁は切れることになる 戦後東京に戻った茂吉は文筆活動を開始し輝子ともよりを戻し学士院賞・読売文学賞・文化勲章を得て歌聖とまで評されるがふさ子は新聞紙上で知るだけであった 花の蜜を堪能するだけ吸い我が身を肥す蜂のように茂吉にはふさ子に対する罪悪感はなかった 自分の虚しい時期を埋めてくれた一人の女であり茂吉から葉書一枚来なかった
 茂吉は昭和28年72歳で死去した 『先生の死を知って魂の抜け殻になった私に長く虚しい年月が流れました』と語ったという
 茂吉の十周忌にふさ子はその恋文の全部を小説中央公論公表し歌壇は騒然となったという ふさ子は終生独身を通し『茂吉ほどの人に愛された以上他の人の愛を受け入れられることはできない』とその信念を通し平成5年83歳でなくなった 意外と最近まで生存していた
(参照 ネット斉藤茂吉と永井ふさ子の愛
 ~四国なる乙女恋しも~ )