長谷堂城祉の小山と長谷堂古戦場跡 瀧の山麓から凡そ7km西  山形市長谷堂楯山
山形城の西南7kmにある 全国きっての知将直江兼続2.5万の軍から最上軍志村伊豆守光安が旗本100騎と足軽鉄砲200兵で半月に渡り死守し戦史に残る戦場となる 運よく関ケ原での東軍徳川の勝利が伝達されるとさすがの上杉直江軍は米沢に引き上げることになった
 
長谷堂合戦戦死者供養塔
下右 上山市指定文化財三本松の追分板碑   

  江戸道と米沢道の追分石 
 右に元禄4年未年 右ハよ年さわ 左に7月15日 左ハ江とみち とある 


三本松の追分  上山市三本松
左 羽州街道 右 米沢街道 その間にあるのが下左の追分石で江戸道と米沢道の追分石と呼ばれている 元々は供養碑だったので真ん中に南無阿弥陀仏と彫られている
左 長谷堂城登り口
右上 
地元の住民が両軍の戦死者を弔った碑
徳川家康は石田三成を関が原に誘き出すため徳川方最上義光豊臣方会津上杉景勝を挟み撃ちにするために会津に向けて出陣を命じた 宇都宮まで来た時案の定石田軍が出陣したとの報に接し即刻徳川軍は反転して関が原に向った 梯子をはずされた格好になった最上軍は当時徳川・毛利に次石高120万石の大大名上杉軍の脅威に晒されたのである 恐れる最上義光知将直江兼続が2万数千の大軍でここ長谷堂城に襲いかかったのです それを迎え撃ち半月に渡り防禦し撤退させたのが最上郡志村伊豆守光安でる こうして最上57万石が維持され長谷堂城は難攻不落の城として戦史に残る城となったのである 1600年(慶長5年)出羽の関が原合戦と言われる由縁である 
       瀧の山 其の3
 

主水塚 古戦場跡の最激戦地  最上軍伊勢高治(光安)と上杉軍直江兼続両軍戦死者200余名を祀る 直江軍武将で不出世の剣豪と言われた上泉主水泰綱の壮絶なる戦死から主水塚と呼ばれる

湯之上観音寺  上山市十日町
 最上33観音第10番札所 行基菩薩の開基というが西蔵王山中の瀧の山の厳しい修験道と其の麓にある銭と慾と女郎の陸奥三大温泉歓楽街の一つが共にあるのも人間くさくて面白い 人間の心から聖俗は切り離せないのかもしれない 境内に共同浴場の湯壺に注ぐ滝口があったので湯之上と呼ばれてる