当たり前だが鳥居と言えば神社にはご存知のバランスの良いスマートな鳥居が立ってるのが普通だが山形には原始的で無骨だが大地に根ざしたようなユーモラスな石鳥居が結構あるのです。ことに最上三大石鳥居と呼ばれるのが山形市鳥居ケ丘『元木の石鳥居』・天童市清池の『荒谷原の石鳥居』・東根市六田の『六田の石鳥居』である。元木の石鳥居近くにある瀧の山は山形市内の方なら兎も角、県外の我々には全く知名度は在りませんでした。そのすぐ背後にある蔵王なら子供でも行った事があるのにです。所が山形県を歩くにあたり山形市史を開いてみると、P498に『瀧山文化と瀧の山・山岳信仰と瀧山文化』と言う立派な章があるのです。然もあの西行も立ち寄り歌に詠んでいる上に、6ページもの紙数を割いている事を考えると往時は相当重要な地だったに違いないのです。資料によると山岳信仰の地瀧の山は851年慈覚大師の開山によると言う。地図を見ると西蔵王高原・西蔵王放牧場の近くに三百坊と書かれてる所が在ります。往時ここに瀧山寺(霊山寺)を中心に数百の宿坊があり国分寺に次格式の定額寺であったと言う。ここに1200年前には山岳信仰の瀧山天台修験僧の一大道場のあった所なのです。西行は1118年生まれで1140年頃23歳で出家、1144年頃に陸奥・出羽の旅に出ているのです。彼は瀧山寺の往時の評判は勿論知っていたでしょうから当然立ち寄ったのです。出羽の草深い瀧の山にある女人禁制の殺伐とした荒々しい修験道場をイメージしていたが、そこには見事な桜が一面に咲き誇り香しい匂いが立ち込めていたので思わず『たぐいなき・・・』とつぶやいたに違いない。『他には見たことも無い出羽の桜と香が・・・・』と。でも西行は何処の花を見てもこんな事をつぶやいていたらしいのです。例えば彼が一番愛した吉野山では
吉野山 こずえの花を みし日より 心は身にも そわずなりけり
と詠み、『吉野山の花を見た時からもうじっとしてはいれない。思いは花の事で一杯で仕事も手につかない。ア〜早く花見にいきたい〜 吉野の花が一番だ!』といってる舌の乾かぬうちに平泉に立ち寄った時には
陸奥の 束稲山の櫻花 吉野のほかに かかるべしとは
と、『こんな田舎の岩手の束稲山にこんな見事な桜の山があるなんて。吉野山なんか問題じゃないよな〜』と詠んでいるのです。彼は桜ならどんな桜でも愛でたのです。 |
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だからと言ってどんな女性でも良かったのではないのです。思うに女性遍歴の多い彼だが、桜を白河法皇の愛妾で鳥羽上皇の中宮である美貌の女性で待賢門院璋子(たまこ)に叶わぬ恋人の面影を託したしたのです。17歳年上の障子もまんざらでもなかったらしいのです。プラトニックではなく一回ぐらいの肉体関係まで行ってもおかしくない程の腕と肉体と教養と美貌を持った天皇を守る若きエリート北面の武士であった西行(佐藤義清)である。璋子も
長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ
と後朝(きぬぎぬ)の別れの後に璋子が詠んだものである。もてもての彼では有るが、世が世であるだけに叶わぬ恋と悟った彼は、妻と子供を捨てて出家したのである。桜を見るたび璋子を思い出したに違いない。だから死に臨み辞世の一首に
仏には 桜の花を たてまつれ 我がのちの世に 人とぶらはば
と詠んでいる。『死んだらば花輪も香典もいらないから桜の花だけを飾ってくれないか。 障子の形見の桜の花が傍にあれば何もいらない』と喪主に頼んだに違いないのです。彼女の面影を捨てようと『陸奥一人旅』をした彼だが結局は捨てきれなかったのです。5月8日は瀧の山三百坊の桜の下で西行祭りが行われるそうだし、市内には桜田、上桜田、中桜田、桜田西、桜田東、桜田南等桜の町名も多いのも西行とは無関係ではないでしょう。彼は修験道の開祖役の行者小角の修行した葛城山の麓 大阪府南河内郡弘川にある弘川寺に眠ってるのです。彼には口には出せぬ『男の純情と男の背中』を見る思いです。この瀧山寺は1258年(正嘉2年)執権北条時頼により閉山に追い込まれたのです。修験僧の余りの横暴・増長によりとあるのだが北条得宗領維持のためだったらしい。所でこの瀧山寺には二説がありどちらも譲らないのです。村山盆地を挟んで今まで述べた蔵王山麓説と其の西向いにある出羽丘陵木沢川の長谷堂説とである。そこを通る国道348号線は小滝街道と言い当時西行が歩いた道だからというのです。真に古代歌枕の興味は尽きないのです。尚瀧の山については山形市立図書館の横戸様の沢山の貴重な資料を頂きました。御礼申し上げます。(平成19年3月22日)(参考 山形市史 ・みちのくの西行・瀧の山 山形市立図書館資料コピーから 郷土史辞典山形県 人文社 古戦場 新人物往来社)
瀧の山 |
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