・・・尾折嶺を越て米沢領に入り此処彼処を彷徨して其日小松村常念寺に宿しけるが某の山某の水皆幼時徘徊顧望せし所なれば頗に懐古恋旧の情を催し・・
   ふる里は 夢にだにさへ 疎からず 現になどか めぐり来にける     伊達 政宗
   
こし方の おもひ旅寝の ふる里に つゆおきまさる 草枕かな       伊達 政宗
…今日この頃巍然たる大伽藍の資福寺も今や唯旧礎の存するのみ 庭石旧に依るも園池荒果人の香花を供するものない 正宗今昔を俯仰して灌漑禁じ難く・・・
   ある時は あるにまかせて 疎けれど なき跡をとふ 草まくらかな    伊達 政宗

戸塚山古墳 米沢市大字浅川 
この山頂に5世紀末期の前方後円墳一基を含む148基の古墳群がある 其の内の一基が女性で然も首長墳墓の隣にあるり王妃か王女であったろう その為女性を置賜の卑弥呼とも呼ばれている 標高356m置賜の里360度が遠望できる独立丘

戸塚山から見た優嗜曇の里米沢を望む 遥か飯豊連邦の残雪が美しい

国指定史跡稲荷山古墳  南陽市長岡稲荷森 
4世紀後半から5世紀前半の造築で前兆96mで山形県内一を誇る大型前方後円墳である この北側一帯が憂嗜曇郡衛跡の一つとも云われてる
優嗜曇 日本書紀の何とも魅力的単語に惹かれました。倭名類聚集には「於伊太三」とある。この単語は927年に完成し40年後の967年に施行された云う全50巻3300条から成る膨大な延喜式の命により置賜に改名されたと言うのだ。『凡そ諸国部内郡里等名、並びに二字を用い必ず嘉名を取る』 ザット云うと『各国の地名は縁起の良い二文字の漢字で表記せよ』との命令が出たのです。この時から優嗜曇は置賜となったのです。兎も角ご承知の通り米沢は伊達政宗生誕の地であり、あの有名な直江兼続・上杉景勝30万石の城下町で後に上杉甕山の名君を生んだ地なのです。この様に置賜の四大傑物と言えば伊達政宗・上杉景勝・直江兼続・上杉鷹山の錚々たる人物である。ことに上杉鷹山はケネディ元大統領が日本で一番尊敬する人物と激賞されたのである。それは鷹山が次期藩主となる治広に家督を譲際に申し渡した伝国の辞3か条の心得である。『一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すべき物にはこれなく候。 一、人民は国家に属したる人民にて我私すべき物にはこれ無く候。 一、国家人民の為に立てたる君にして、君の為に立てたる国家人民にはこれなく候』が同時代のフレデリック大王が述べた『王は国家の第一の召使である』と同じなのに絶賛したからである。1878年(明治11年)イギリス女流探検家イサベラバードが著書日本奥地紀行をして『東洋のアルカディア(桃源郷)『置賜盆地は実り豊かな微笑む大地』と言わせしめた所である。大日本地名辞書に『慶長16年、中納言政宗 越後高田城普請の総奉行を命ぜられしが 経営既に成り 土木業終り 帰国の途 疇昔の遺跡を尋たおり上の歌を詠んだとある。政宗の生まれ故郷米沢を含む山形県南部置賜地方は古来置賜郡と呼ばれていた。古い割には残念ながら此の辺りは歌枕の地ではないのです。其の初見は古く何と日本書記持統天皇3年(689年)正月3日条に『陸奥国の優嗜曇郡の城(柵)養の蝦夷脂利古の男 麻呂と鐵折と 髭髪を剔りて沙門(しゃもん)とならんと請す』と記されているのです。柵養の蝦夷とは俘囚の民の事であり大和朝廷に服従した蝦夷である。その優嗜曇の蝦夷の民 脂利古の息子の麻呂と鐵折の二人が僧侶になりたいとの申し出があった。と記録されているのです。司馬遼太郎流に言えば最初の山形県人なのである。この優嗜曇こそ現在の置賜のことなのです。この文章だけで古代置賜の魅力に引き込まれこのHPの載せた次第です。然しここ置賜・最上両郡には古代陸奥にある蝦夷のヒーローと征夷大将軍との血湧き肉踊る対決ドラマの記述がないのです。ちょと面白いのが後三年の役(1083年・永保3年)で俘囚の長清原武衡側の間諜(スパイ)として置賜四郎なる人物が紙で鳶の形を造り書状を偲ばせ糸を付けて飛ばして義家側の動静を沼の柵の城中に知らせたと言う記述位です。 陸奥では養老3年(719年)按薩使上毛野広人が殺されたり、神亀元年(724年)には大掾佐伯児麻呂が海道蝦夷に殺されたり、宝亀11年(780年)砦麻呂の乱で按察使紀広純等が殺されたり、又延暦の13年戦争で阿弓流為と田村麻呂の激闘はご存知の通りです。置賜四郎は優嗜曇の蝦夷の末裔かもしれないのです。緊張感溢れる陸奥に比してその100年以上も前に大和朝廷に蝦夷がお坊さんになりたいと申し出てそれが認められたと言う戦どころか何とも平和と友好の地の優嗜曇なのです。当時僧侶と言えば当時は最高の知識人・科学者でしょう。それが蝦夷に認められたとは驚異的ではないでしょうか。何故優嗜曇は大和朝廷との蜜月が可能だったのだろうか?西に出羽山脈、東に奥羽山脈、南に飯豊山・吾妻山と2000m級の山々に遮られているが、その大峠を越えればそこは大和朝廷の直轄地とも言うべきあの会津の里である事と大いに関係が有るかもしれない。実は置賜・最上両郡は和銅5年(712年)迄陸奥国に属していて出羽国ではなかったのです(陸奥国最上・置賜を割いて出羽国に隷属せしむ 続日本紀)。ではその郡衙・郡家の所在は何処なのかは不明である。市史によると郡衙は移動していたのではないかと言う。一つが東置賜郡高畠町にある小(古)郡山(7世紀後半)、郡山の字がある南陽市(8世紀前半)、米沢市内の大浦遺跡(8世紀前半)、東置賜郡の川西町の道伝小松遺跡(9世紀前半〜10世紀初頭)等である。それぞれに立派な古墳が発掘されている。所で米沢と言えば伊達・上杉氏のブランドが大きすぎてそれ以前の領主は知名度が薄いのです。伊達氏の侵攻を受けるまではここは長井氏が支配していたのである。頼朝の奥州征伐で置賜・村山の地頭職に大江広元が拝領した(1189年・文治5年)。彼には5人の子がいて長男親広が大江氏(後に寒河江氏)次男時広(長井氏)等に譲渡されたが長井道広の時代1380年(康暦2年)伊達宗遠・政宗(儀山)親子に攻めら滅亡した。大江広元は頼朝の片腕として戦後処理の実務に腕を発揮し一般政務・財務担当する公文所別当となった。彼の曾祖父には有名な大江匡房がいる。彼は菅原道真と比較されるほどのあらゆる歌才学才の持ち主で48歳で参議・54歳で権中納言・57歳大宰権帥・71歳で正2位大蔵卿に任じられている天才だ。又四男季光は毛利氏を名乗り毛利元就は彼の末裔である。今置賜には僅かに長井市が其の名を留めていて33000uに500種100万本を誇る日本有数の長井のあやめ園は有名で今も微笑みの大地である。(平成19年3月5日)
(参考 大日本地名辞書 富山房 米沢市史 山形県の歴史 河出書房新社  春日山林泉寺記 東北見聞録 八朔社)


  優嗜曇(うきたむ・おいたみ)