松岬神社
神社は明治35年に上杉神社から鷹山公を分祀し松岬神社として創建する 大正12年には初代藩主上杉景勝公を合祀し更に昭和13年には景勝の重臣直江兼続 鷹山の恩師細井平洲 鷹山の藩政改革に協力した功臣竹俣當綱莅戸善政を合祀し六祭神を祀る 社号は米沢城の別名松岬城に由来する 伊達政宗この城で生まれる 政宗が宮城県岩出山に入封されると秀吉の重臣蒲生氏となり家臣蒲生郷安氏の持城となる 郷安は近江松ヶ崎の出なので松ヶ崎城となったらしい その後徳川家康により会津120万石から30万石に減封された上杉景勝が直江兼続が城主であった米沢の城主となる
松崎神社は明治35年上杉神社の摂社として城跡二の丸世子御殿跡に創建された 摂社は本社に属し本社と縁が深い意味である


下 藩主心得3か条 伝国の辞の碑    松岬神社境内

上杉神社 米沢市丸の内1丁目
下右 上杉景勝と直江兼続の像 
上杉神社境内
下左 上杉鷹山像 上杉神社境内
仁沢遍く行き渡り遠山窮谷の民に至る迄一人も餓死離散する者はなかりしなり 

鷹山公世紀

上杉神社は明治9年上杉謙信・上杉鷹山を祭神として米沢城本丸跡に創建された 明治35年別格官幣社に指定され祭神は謙信のみとなり鷹山は摂社松崎神社に祀られた
 上杉鷹山が家臣に示した彼の遺訓に
成せばなる 成さねば成らぬ
   何事も  成らぬは人の    成さぬなりけり

は余りに有名で何方もご存じだがこれに異を唱える説も若干ある 
これは彼の恩師である細井平洲の作ではないかと云うのです 平洲の歌は同じ単語を何度か繰り返すのが特徴という 例えば我が子の誕生に際しては

玉か石か 石か玉かは 
  知らねども 天から我に
 与えたまいし

と喜びを詠んでいる 確かに玉・石を繰り返し最後にもたまいしで締めくくっている
  
例え借用したものであっても鷹山公の手腕や価値に変わりはないでしょう

優嗜曇 その8


十代藩主上杉鷹山が隠居に際し十一代上杉治広に与えた 民主主義の原点と云われる
受けつぎて 国の司の 身となれば 忘るまじきは 民の父母  鷹山