恋の山 しげき御笹の 露わけて 入り初むるより ぬるる袖かな                          新勅撰和歌集 源 顕仲
恋の山 入りて苦しき 道ぞとは 踏みそめてこそ ひ知りぬか                     新千載和歌集 前中納言源 有忠
人やりの 道とは知らぬ 恋の山 我心より 迷いそめつつ                              新葉和歌集 文貞公
はらはれぬ 机の塵の つもりてや 恋てふ山の 名をば立つらん                                    家教
むかしより 人まどふとは 聞きしかど 恋ひてふ山に けふよりぞ入る                       顕輔集 藤原 顕輔
山形県指定文化財多層民家  鶴岡市田麦俣字七つ滝
世界遺産の飛騨白川郷合掌造りの数には及びもしないが豪雪の地にある田麦俣にある四層構造の多層民家 現存してるのはここに2棟(民宿・県指定有形文化財) 鶴岡市に1棟(国指定重要文化財)の3棟のみで3〜4層の兜造りの独特の茅葺が美しい江戸時代文化文政期の建物と推定される 庄内と内陸を結ぶ六十里越街道の要

田麦俣番所跡に建つ名物の時計台 
裸電球が暖かい
 時間もゆったりと流れてるようです
人をのみ こふの湊に よる浪は 袖をのみこそ うちぬらしけれ 
                               
夫木和歌集
国府の湊こふになりなったようで出羽国府の西峰を国府山と言い詞人がこれを恋山と読んだと言う。でも上の三首が湯殿山である保証はないようなのです 
        語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな  芭蕉
        
湯殿山 銭ふむ道の 泪かな    曾良
『惣而
(そうじて)此の山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍って筆をとヾめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨(あじゃり)の需(もとめ)に依りて、三山順礼の句ゝ短冊に書く』。 芭蕉はおくの細道の中で『湯殿山では一般的にこの山中での細かい事や見た事・聞いた事・出来事は修験道の決まりとして他人に話す事を禁じている(問うな・語るな・問われても答えるな・語られても聞くな)。だからこれ以上書く事はやめる。その代わり宿坊に帰って短冊に一句詠む』とでも解釈するのでしょうか?。神秘な霊場として湯殿山での事は他人に語る事を硬く禁じられていたのです(他言無用)。弟子天野桃隣はその著陸奥衛(むつちどり)の中で『早天湯殿奥の院へ参詣ス・・・・堅く秘密の御掟、尊き千品語不叶。いよいよ敬ひて、慎むべきはこの御山成けらし』と書いている。今日でも参拝の前夜、道場において、お山のことについて他言せぬ事を誓約させられるという。湯殿山神社には社殿がないのです。御神体はご存知のように熱湯が湧き出る黄褐色の巨岩石でこの辺り一帯が神域とされているのです。ここ湯殿山は弘法大師の開基と伝えられているが、彼が高野山で入定して即身仏になったと言う伝説から湯殿山は彼の功徳を慕う多数の修行者が入山したのです。その数江戸後期には300人を数え厳しい修行の中から即身仏を志するものが現れたのです。だから即身仏信仰が出羽三山の中でも湯殿山に集中しているのです。今 日本に即身仏が23体あるらしいのですが山形県には11体が残り、更に其の内6体が庄内にあるのです。いかにここ出羽三山の地が修験道霊域だったかが伺われるのです。其の中で最初の即身仏が本明海上人で本明寺(東田川郡朝日村)にある。外に真如海上人は大日坊(東田川郡朝日村)鉄門海上人は注連寺(東田川郡朝日村)、忠海上人・円明海上人が海向寺(酒田市日吉町)、鉄竜海上人が南岳寺(鶴岡市砂田町)に安置されているのです。所が神聖なる即身仏にも次の様な学説もあるのにはチョット目から鱗の心境です。
難行苦行の末広く衆人救済の為に土中入定して即身仏となり我々も畏敬の念を持ってお参りしていたのだがこれと全く異なる解釈をされる方もいるのです。出羽に修験に来た殆どの一世行人が村外から訪れてきた流れ者的人物あって、大日方や注連寺の高僧たちや門前の坊の人たちは誰も即身仏とはなっていないと言うのである。村外者(アウトサイダー)である一世行人に木食行をさせ即身仏に仕立て上げ大日坊や注連寺は自らの信仰的基盤強化に利用したと言うのだ。有名な湯殿山即身仏と言えば土中入定による即身仏と言うことが強調されるが実際は土中入定でない事が証明されてる即身仏が鉄門海上人等いくつかあるらしいのです。確実に資料上証明されてる即身仏は一体もないと言うのです。即身仏はまさに村外者である異人殺しに結び付けられると言うのである。山伏の伝統的処刑方法に石子詰というのがあるが悪事を犯した修験者に対して穴の中に入れて上から皆で石を投げて埋め殺してそれを山伏が即身仏として加工したとも考えられるというのです。この陸奥の出羽三山の山中に巨大霊域が形成されたのには犠牲となった多くのアウトサイダーやアオウローがいたのではないかとする覚めた見方も私にとって新鮮な驚きでした。五穀(米・麦・大豆・小豆・胡麻)を断ち木の実と草だけで1000日以上の修行をした行人が土中に入り生きたまま死期を待ち生き仏となって衆人の救済を図った修験者のイメージとは裏腹の解釈も一部ある事を頭の片隅に置いてお参りしたら即身仏のイメージも変わるかも知れない。所で不思議なのがこの神聖なる修験道の霊場が何故煩悩に悶える恋の山呼ばれるようになったのかははっきりしないのです。一説には一度此の山に訪れた者は何年たっても忘れられず慕われるからだとか、はた又酒田の国府(田川郡に出羽国府があった)の津にある山だから訛ってこくふの山・こふの山・こいの山になったのではないかと大日本地名辞書には書いてるが、何時までたっても煩悩から逃れられないのが人間だ。温泉が湧き出てる山を恋の山と呼ぶのも何か男女の因縁深いものを感じるのです。(平成19年9月14日)(参考 山形県の歴史散歩 山川出版社 奥の細道 講談社学術文庫 大日本地名辞書 富山房  出羽三山信仰の歴史地理学的研究 竃シ著出版  六十里越街道 無明舎出版)
      湯殿山(恋の山)