七五三掛(しめかけ)湯殿山注連寺 鶴岡市大綱中台
天長2年(824)に空海の開基 陸奥巡錫の折酒田の赤川に光る梵字が流れ来るのを見て川を遡りこの地至ったという ここ七五三掛の地は八方を峰々に囲まれ八葉蓮台の如く見えることか清浄の地と定めその時桜の木に注連(しめなわ)を掛けたのでその後注連寺となり村も七五三掛{しめかけ)と呼ばれた 寺には鉄門海上人の即身仏が安置されてるが勿論撮影禁止 本堂の天井にはチャップリンやデフォルメされた妖怪や外国の漫画の絵が描かれた変わった寺 真言四ヶ寺で最も古く女人結界の遥拝寺として女性信者で賑わったと言う |
湯殿山表口別当大日坊の仁王門 鶴岡市大綱入道
空海が梵字の流れてきた梵字川上流を訪ねここ大綱の地に大日如来を勧進し一宇を建立したのが始まりと言う その後湯殿山信仰と共に隆盛し多くの僧坊 宿坊 執事本坊 道場 講堂が建てられ最後に大日坊と言う大伽藍が建立された 後に大日坊と俗称されたのである 徳川家とも関係が深く江戸城大奥の春日局が1640年(寛永17年)に再建したと言う 三代将軍家光の乳母で天下泰平と家光の武運長久を祈願して境内に三間四方の堂宇を建て大日如来像安置した その後も将軍の跡目争いや病気回復祈願で代参を度々派遣している中には➡下へ |
月光山本道寺にある仏足石 西村山郡西川町本道寺
仏足石は釈迦の足下相を表現したもので全国には凡そ130基程あるそうだがここ本道寺の仏足石は行道と修験道千連を持つ文様で奈良薬師寺仏足堂(国宝)・羽黒山黄金堂と全国に三基だけと言う大変貴重なものだそうだ 然も寺の外側の廊下に囲いも無く展示されているのには少し驚いた 明治の廃仏毀釈では破壊されたのは痛々しい |
大井沢金色山大日寺 西村山郡西川町大井沢
明治36年の火災で残ったのがこの山門仁王門と石段のみである明治の神仏分離令で寺号を返上湯殿山神社となる 県道27号線沿いにある |
湯殿山登山口
出羽三山への登拝口(入山ゲート)は八方七口と言われ八つの入山口があったと言う 其の内同じ大網村にある七五三掛口と大網口を一口として七口としてたのが羽黒山側の主張である 天台系羽黒山と真言系の湯殿山は長い間相当の対抗意識があったという 其の内の湯殿山側の登拝口にある湯殿山別当寺院が真言四ヶ寺である
湯殿山(七五三掛)注連寺 湯殿山瀧水寺金剛院大日坊 月光山本道寺 金色山大日寺
である 大日寺を除くといずれも六十里越街道沿いにある それぞれが重厚な歴史が感じられる古刹である
湯殿山 其の2
➡ と歌われ白衣の行者で埋め尽くされた貞観年間には国家鎮護玉体(天皇陛下)安穏の祈祷所として勅許された由緒ある寺院 |
森敦文学碑 注連寺境内
作家森敦氏が昭和26年注連寺を訪れひと冬過ごした体験をもとに出筆した小説月山は昭和和49年芥川賞を受賞した
碑文には
月山 すべての吹きの寄するところこれ月山なり |
大日坊宝筐印塔 |
上から ➡即身仏真如海上人が現存する 明治8年の火災で大日坊の堂塔大伽藍は消滅して今は無い
左 宝筐印塔 大日坊境内
宝筐印陀羅尼教の経典に基づく供養塔で笠の四隅に石の突起(隅飾り)がある 1628年(寛永5年)建立 高さ8m 台座4m 重さ30トンの朝日村有形文化財である |
月光山本道寺 809年(大同4年)空海が草庵月光山光明院と称したのが始まり 空海は弟子に『将来ここが湯殿山大権現へのメインルート・本道になる』と後事を託して去ったと言う言い伝えから本道寺と呼ばれ地名も本道寺になった 他堂宇同様度重なる火災の繰り返しで威容はない |
弘法大師空海が注蓮寺・大日坊・本道寺と天長年間同時期に開基したと伝える 応永年間中興の祖道智上人が再興し置賜方面から湯殿山参詣者のための道智通りという新道を開削した 江戸期の最盛期には湯殿山別当4ヶ寺の一つとなり日本七代霊場の一つともされた 多くの堂塔伽藍と門前家来が6件7坊と其の外側には26もの宿坊があり『湯殿まで笠の浪うつ大井沢』➡右へ |